目次
はじめに
本稿はKMシリーズ第II部の最終回として、異時点間選択とインフラ投資理論を扱う。KM01第2章で確認した消費者理論・生産者理論は、いずれも単一時点における意思決定を暗黙の前提としていたが、本稿では、KM01第1章1.1で確認したD9(異時点間の選択と成長)という中分類のもと、時間を通じた意思決定――消費者のライフサイクルにわたる消費・貯蓄計画、企業の投資タイミングの選択、そして世代を超えた資源配分――を扱う。この理論的視座は、KK04第4章で確認したArrow-Lind定理・実物オプション理論、KK07第3章で確認したほくほく線の計画変更の事例分析とも、直接に接続する。
本稿の構成は次の通りである。まず異時点間の消費者選択として、ライフサイクルモデル・恒常所得仮説を扱う。続いて異時点間の企業選択・投資理論として、実物オプション理論をKK04・KK07で予告した内容からさらに精緻化する。最後に世代重複モデル(OLG)とインフラ投資として、Samuelson・Diamondの理論的基礎と、動学的非効率性・公共投資の関係を扱う。対応するJEL分類は、KM01で確認した通り、D9(異時点間の選択と成長)を中心とする。
異時点間の消費者選択(ライフサイクルモデル)
異時点間の消費者選択を理論化した古典的な貢献が、Franco ModiglianiとRichard Brumbergが1954年に発表した「ライフサイクル仮説(Life-Cycle Hypothesis、LCH)」、およびMilton Friedmanが1957年に発表した「恒常所得仮説(Permanent Income Hypothesis、PIH)」である[1]。両者はほぼ同時期に、独立に類似の結論に到達した。すなわち、消費者は、ある時点での消費水準を、その時点の現在所得のみに基づいて決定するのではなく、生涯を通じて得られると予想される所得(ライフサイクル仮説における生涯資源、恒常所得仮説における恒常所得)に基づいて決定するという命題である[1]。この視座のもとでは、消費者は、稼得能力の高い時期(就労期)に貯蓄を行い、稼得能力の低い時期(退職後)に貯蓄を取り崩すことで、生涯を通じた消費水準を平準化しようとする。
この理論の起源については、Irving Fisherが1930年に示した異時点間の効用最大化モデルにまで遡ることができ、Modigliani自身も、この理論的な系譜――Fisherの異時点間モデルを、より操作可能な実証モデルへと具体化する試み――の中に、自らのライフサイクル仮説を位置づけている[2]。この理論は、KM01第2章で確認した標準的な消費者理論――単一時点における効用最大化――を、生涯という長期的な時間軸へと拡張したものとして理解することができる。この拡張された枠組みは、交通需要の文脈においても、重要な示唆を持つ。すなわち、KM02第3章で確認した移動時間の価値(VOT)や、KK04第4章で確認したリスク・不確実性の理論は、いずれも特定時点での意思決定を分析対象としてきたが、実際の交通行動(例えば自動車保有の意思決定、居住地選択)は、しばしば生涯を通じた資源配分計画の一部として行われる。この視座は、KM02第2章で確認したMcFaddenが1978年に扱った居住地選択モデルとも、理論的に接続する。
主要先行研究
本節で扱った異時点間の消費者選択理論の主要文献を一覧すると、次の通りとなる。
| 領域 | 文献 | 要点 |
|---|---|---|
| ライフサイクル仮説 | Modigliani and Brumberg (1954) | 生涯資源に基づく消費・貯蓄計画 |
| 恒常所得仮説 | Friedman (1957) | 恒常所得に基づく消費決定、一時的所得変動の消費への影響の限定性 |
| 異時点間モデルの原型 | Fisher (1930) | 異時点間の効用最大化の基礎理論 |
異時点間の企業選択・投資理論
実物オプション理論の精緻化 ― McDonald-Siegel(1986年)
KK04第4章4.3で予告した実物オプション理論を、本節でより精緻に確認する。実物オプション理論の数理的な基盤を確立した重要な貢献が、Robert L. McDonaldとDaniel R. Siegelが1986年に『Quarterly Journal of Economics』誌に発表した論文「The Value of Waiting to Invest」である[3]。この論文は、不可逆的なプロジェクトへの投資タイミングを、プロジェクトからの便益と投資費用の双方が、連続時間の確率過程に従って変動するという設定のもとで分析した[3]。McDonaldとSiegelが導いた中心的な結果は、企業は、プロジェクトの価値が投資費用と等しくなった時点で直ちに投資を実行すべきではなく、投資を正当化する価値の閾値が、投資費用そのものよりもはるかに高い水準に達するまで、投資を遅らせるべきであるという、「投資を待つことの価値(value of waiting to invest)」の定量化にある[3]。
この結果の直観的な理由は次の通りである。ひとたび不可逆的な投資を実行すると、その後にプロジェクトの価値が低下したとしても、投資費用を回収することはできない。これに対し、投資を実行せずに待つという選択肢は、将来的にプロジェクトの価値が上昇すれば投資を実行し、価値が低下すれば投資を見送るという、非対称的な利得構造を持つ。この非対称性ゆえに、不確実性が高いほど、待つことの価値(オプション価値)は増大し、結果として、投資を正当化する閾値も上昇する[3]。この結果は、KK04第4章で確認したArrow-Lind定理――公共投資のリスクは多数の主体に分散されることで、社会的なリスクプレミアムが低下するという命題――とは異なる、投資タイミングそのものに関する理論的な視座を提供する点で、両者は補完的な関係にある。
KK04・KK07で確認したDixit-Pindyckとの接続
McDonald-Siegelの理論は、KK04第4章4.3で確認したAvinash DixitとRobert Pindyckによる1994年の著作『Investment under Uncertainty』において、より包括的な理論体系へと発展させられた。KK07第3章3.3で確認した北越急行ほくほく線の事例――当初の低規格路線としての建設計画から、新幹線接続による広域輸送需要の見込みに応じて、電化・高速化路線へと計画を変更した経緯――は、本節で確認したMcDonald-Siegel型の実物オプション理論に照らして、改めて興味深い解釈が可能である。すなわち、開業までに13年を要したという計画の長期化そのものが、需要の不確実性が解消されるのを待つという、McDonald-Siegelが定式化した「待つことの価値」を体現する意思決定であった可能性を示唆する。この解釈は、KK07で【推論】として留保した論点に、より厳密な理論的根拠を与えるものである。
主要先行研究
本節で扱った実物オプション理論の主要文献を一覧すると、次の通りとなる。
| 領域 | 文献 | 要点 |
|---|---|---|
| 投資タイミングの理論的定式化 | McDonald and Siegel (1986) | 不可逆的投資における「投資を待つことの価値」の定量化 |
| 実物オプション理論の体系化 | Dixit and Pindyck (1994)(KK04で既出) | 不確実性・不可逆性のもとでの投資理論の包括的整理 |
世代重複モデル(OLG)とインフラ投資
Samuelson(1958年)・Diamond(1965年)のOLGモデル
本稿第1章で確認したライフサイクルモデルが、単一の消費者の生涯にわたる意思決定を扱ったのに対し、世代重複モデル(Overlapping Generations Model、OLG)は、異なる世代が同時に共存し、経済全体として世代から世代へと資源が受け継がれていく構造を扱う、より集計的な理論的枠組みである。この理論の起点は、Paul A. Samuelsonが1958年に発表した論文であり、Samuelsonは、有限の生涯を持つ経済主体が世代を超えて重複する純粋交換経済において、本質的に無価値であるはずの貨幣(不換紙幣)が、正の価値を持ちうることを示した[4]。この結果は、若い世代が、将来世代がそれを受け入れてくれるであろうという期待のもとで、無価値な貨幣と引き換えに財を譲渡するという、世代を超えた暗黙の合意によって説明される。
Peter A. Diamondは1965年に発表した論文「National Debt in a Neoclassical Growth Model」において、Samuelsonの純粋交換経済モデルに、生産関数と資本蓄積を明示的に組み込み、政府債務が資本蓄積・経済成長に及ぼす影響を分析する、より応用的な枠組みへと拡張した[5]。Diamondのモデルでは、経済主体は二期間(就労期・退職期)を生き、就労期に労働供給を行い賃金を得て、この賃金の一部を貯蓄し、退職期にはこの貯蓄とその収益によって消費を賄う。Diamondは、この枠組みのもとで、政府が発行する債務(国内債務)が、民間の資本蓄積を代替(クラウドアウト)しうることを示した[5]。
動学的非効率性と公共投資
Diamondのモデルから導かれるもう一つの重要な理論的帰結が、「動学的非効率性(dynamic inefficiency)」という概念である。ある経済において、資本の過剰蓄積(オーバーセービング)が生じ、利子率が経済成長率を下回る状態が続く場合、この経済は動学的に非効率であるとされる[6]。動学的に非効率な経済では、逆説的に、政府債務の発行が、過剰な貯蓄を減少させることを通じて、経済全体の効率性を改善しうることが示される[6]。この結果は、KK02第2章で確認したDomar(1944年)の債務持続可能性論――経済成長率が金利を上回る限り、財政赤字が継続しても債務対GDP比が発散しないとする条件――とも、理論的に接続する。すなわち、動学的非効率性の議論は、Domarが示した「r(金利)対g(成長率)」の関係が、単に債務の持続可能性を左右するだけでなく、そもそも政府債務の発行そのものが、経済全体の資源配分の効率性を改善しうるという、より積極的な政策的含意を持つことを示している。
この動学的非効率性という視座は、公共インフラ投資の資金調達方法(税による調達か債務による調達か)を検討する上で、重要な理論的基盤を提供する。すなわち、動学的に非効率な経済(低金利環境下の先進国経済等)においては、公共投資、とりわけ交通インフラのような長期にわたって便益を生む資本財への投資を、債務によって調達することが、単に世代間の負担の公平な配分(KK02第2章で確認した受益者負担の時間的な次元)という観点だけでなく、経済全体の効率性という観点からも、正当化されうる。この理論的含意は、Hirofumi Ihoriが1978年に、Jean Tiroleが1985年に、それぞれ独立にDiamondのモデルを発展させ、政府債務やバブル的資産(非生産的な資産)が、動学的に非効率な経済において、効率性を改善しうることを示したことによって、さらに精緻化されている[7]。この一連の理論的展開は、KK07で確認した地方債による交通インフラ整備の資金調達論、およびKM08(本稿)で確認したMcDonald-Siegel型の投資タイミング理論と組み合わさることで、交通インフラ投資の「いつ、どのように資金調達すべきか」という問いに対する、包括的な理論的枠組みを提供する。
主要先行研究
本節で扱ったOLGモデルとインフラ投資の主要文献を一覧すると、次の通りとなる。
| 領域 | 文献 | 要点 |
|---|---|---|
| 純粋交換経済のOLGモデル | Samuelson (1958) | 世代重複構造における貨幣の正の価値の説明 |
| 生産経済への拡張 | Diamond (1965) | 政府債務と資本蓄積の関係、動学的非効率性 |
| 動学的非効率性下の債務・バブルの効率性改善効果 | Ihori (1978)、Tirole (1985) | Diamondモデルの独立した発展的精緻化 |
おわりに
本稿では、異時点間の消費者選択(Modigliani-Brumberg・Friedmanのライフサイクル・恒常所得仮説)、異時点間の企業選択・投資理論(McDonald-Siegelの実物オプション理論、Dixit-Pindyckとの接続)、そして世代重複モデル(OLG)とインフラ投資(Samuelson・Diamondの理論的基礎、動学的非効率性と公共投資)を扱った。本稿を通じて確認できたのは、KM01〜KM07で確立してきたミクロ経済学の理論群が、いずれも単一時点・単一世代の分析にとどまらず、生涯・世代を超えた時間軸へと拡張されることで、KK02・KK04・KK07で確認した公共経済学的な投資評価論・財政運営論と、深く接続する理論的基盤を提供するという点である。
これにより、KMシリーズ第II部(KM02〜KM08)は、KM01で確立したミクロ経済学の理論的基礎を、交通・物流分野の主要な理論領域――消費者理論、生産者理論・組織の経済学、市場構造・オークション理論、マーケットデザイン・マッチング理論、情報の経済学・ゲーム理論、空間経済学・一般均衡理論、異時点間選択・インフラ投資理論――に適用する作業を、一通り完了したことになる。KKシリーズが公共経済学の観点から、KMシリーズがミクロ経済学の観点から、それぞれ独立に交通・物流分野に接続してきたこの二つのシリーズは、随所での相互参照を通じて、公共経済学とミクロ経済学という二つの大分類が、交通・物流という一つの政策領域において、いかに理論的に統合されうるかを示す、一つの体系的な理論地図を形成するに至った。
参考資料一覧
- Modigliani, F. and Brumberg, R. (1954) “Utility Analysis and the Consumption Function: An Interpretation of Cross-Section Data,” in K.K. Kurihara (ed.) Post-Keynesian Economics, Rutgers University Press;Friedman, M. (1957) “A Theory of the Consumption Function,” Princeton University Press
- Fisher, I. (1930)(異時点間モデルの起源についての学術的解説を参照)
- McDonald, R.L. and Siegel, D.R. (1986) “The Value of Waiting to Invest,” Quarterly Journal of Economics 101(4): 707-727
- Samuelson, P.A. (1958)(世代重複モデルの純粋交換経済版についての学術的解説を参照)
- Diamond, P.A. (1965) “National Debt in a Neoclassical Growth Model,” American Economic Review 55(5): 1126-1150
- 動学的非効率性の概念についての学術的解説(ScienceDirect掲載論文「Public investment, national debt, and economic growth」を参照)
- Ihori, T. (1978);Tirole, J. (1985)(Diamondモデルの発展的精緻化についての学術的解説を参照)
年表
- 1930年 ― Irving Fisher、異時点間の効用最大化モデルを発表
- 1944年 ― Evsey Domar、債務持続可能性論を発表(KK02既出)
- 1954年 ― Franco Modigliani・Richard Brumberg、ライフサイクル仮説を発表
- 1957年 ― Milton Friedman、恒常所得仮説を発表(『A Theory of the Consumption Function』)
- 1958年 ― Paul Samuelson、純粋交換経済における世代重複モデルを発表
- 1965年 ― Peter Diamond、「National Debt in a Neoclassical Growth Model」で生産経済版OLGモデルを発表
- 1978年 ― Hirofumi Ihori、動学的非効率性下での公債の効率性改善効果を発表
- 1982年 ― Robert McDonald・Daniel Siegel、投資タイミング理論をNBERワーキングペーパーとして発表
- 1985年 ― 1985年、Nobel記念経済学賞、Modigliani(ライフサイクル仮説)受賞
- 1985年 ― Jean Tirole、バブル資産による動学的非効率性の改善効果を発表
- 1986年 ― McDonald・Siegel、「The Value of Waiting to Invest」をQuarterly Journal of Economicsに発表
- 1994年 ― Avinash Dixit・Robert Pindyck、『Investment under Uncertainty』刊行(KK04既出)
- 1997年 ― 北越急行ほくほく線開業(設立から13年、KK07既出)
- 2010年 ― Peter Diamond、労働市場の探索理論の功績でノーベル経済学賞受賞
用語集
- Life-Cycle Hypothesis (LCH): ライフサイクル仮説:消費者が生涯を通じて得られると予想される資源(生涯資源)に基づいて、各時点の消費水準を決定するとする理論。Modigliani and Brumbergが提示。
- Permanent Income Hypothesis (PIH): 恒常所得仮説:消費決定が現在所得ではなく恒常所得(長期的に得られると期待される平均的な所得)に基づくとする理論。Friedmanが提示。
- Value of Waiting to Invest: 投資を待つことの価値:不可逆的な投資について、プロジェクト価値が投資費用と等しくなった時点で直ちに投資するのではなく、より高い閾値に達するまで待つことで得られる価値。McDonald and Siegelが定式化。
- Overlapping Generations Model (OLG): 世代重複モデル:異なる世代が同時に共存し、世代から世代へと資源が受け継がれていく経済構造を扱う理論的枠組み。Samuelsonが純粋交換経済版を、Diamondが生産経済版を確立。
- Dynamic Inefficiency: 動学的非効率性:資本の過剰蓄積により利子率が経済成長率を下回る状態が続き、政府債務の発行がむしろ経済全体の効率性を改善しうるとされる状態。
- Crowding Out (of Private Capital): (民間資本の)クラウドアウト:政府債務の発行が民間の資本蓄積を代替・押し出す効果。
- Bubble Asset (in OLG Context): バブル資産(OLG文脈における):本質的に非生産的でありながら、動学的に非効率な経済において資源配分の効率性を改善しうる資産。Tiroleが分析。








