なぜ新規事業より継続事業の方が予算を取りやすいのか——ワイルダフスキーの漸増主義理論と、日本の概算要求・シーリング・査定・復活折衝という四段階を整理。2026年度予算で新設された「投資枠」まで含め、制度化された漸増主義が近年どう侵食されているかを追う回です。
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目次
はじめに
ZP01では、行政学の全体構成、特に辻清明から西尾勝への日本行政学の展開を整理した。本稿は、後続する各論の第一回として、予算編成過程論——概算要求・査定・復活折衝という、毎年繰り返される予算獲得の力学——を掘り下げる。この主題は、なぜ新規事業より継続事業の方が予算を獲得しやすいのかという、交通・物流の実務者が繰り返し直面する壁に、理論的な説明を与える。
日本の予算編成過程
四段階の過程
日本における中央政府の予算編成は、財務省(中央省庁再編前は大蔵省)主計局が担当する[1]。予算編成の過程は、大きく分けて、各省庁による概算要求の提出、これに対する財務省の査定、復活折衝、政府案の作成という、四つの段階から構成される[1]。予算の提案権は政府だけにあり、衆参両院には提案権が認められていない[1]。
概算要求とシーリング
各省庁は、前年度予算の成立後、翌年度予算に向けた新規政策の立案作業に入り、財務省に対して、必要な予算額をまとめた概算要求を提出する[1][2]。この概算要求は、政府が閣議了解した、要求額の上限や重点分野を定める「概算要求基準」(通称:シーリング)に沿って策定される[3]。概算要求基準は、1961年(昭和36年)の「予算概算要求枠」に端を発する制度で、1985年(昭和60年)に「予算概算要求基準」へと名称が変更され、1998年(平成10年)以降は「○○年度予算の概算要求に当たっての基本的な方針」という名称に変わった[2]。シーリングは、官庁や特定の政策分野を重視する議員の要求を抑え、予算支出を制限する効果を持つとされる[2]。
査定と財務省原案
各省庁からの概算要求を、財務省の主計局がとりまとめ、査定を行う。財務大臣の諮問機関である財政制度等審議会が11月頃に取りまとめる建議(意見書)が、この査定の指針となる[1]。主計局内での説明・再調査・再説明を経て、査定案は12月頃を目処として徐々に固まっていき、年内の編成を終えて、財務省原案を内示するのが原則である[1]。
復活折衝
財務省原案の内示後、原案に盛り込まれなかった要求について、各省庁が財務省と交渉を行う過程が、復活折衝である[1]。この折衝を経て、最終的な政府案が確定する。
ワイルダフスキーの漸増主義理論
『予算編成過程の政治学』という古典
予算編成過程を、経済学・行政学の合理主義的な想定から解き放ち、政治的・行動論的な現象として分析した、画期的な業績が、政治学者アーロン・ワイルダフスキーによる、1964年の著書『予算編成過程の政治学』である[4]。この著書は、公共行政学における古典として位置づけられている[5]。
漸増主義——「予算は総合的にではなく、漸増的に編成される」
ワイルダフスキーの中心的な主張は、予算編成が、包括的にではなく、漸増的(incremental)に行われる、というものである[6]。ワイルダフスキーは、ある機関の予算が、既存の全ての事業の価値を、あらゆる代替案と比較して再検討するという意味で、全体として能動的に見直されることは、ほとんどないと論じた[6]。むしろ、予算編成は、前年度の予算を基礎とし、狭い範囲の増減にのみ、特別な注意が向けられる形で行われる[6]。
秩序ある無秩序——分権的な過程が生み出す安定性
ワイルダフスキーの重要な貢献は、当時、分権的で「ボトムアップ」な、連邦議会の予算編成過程が、単なる無秩序としてしか見えなかった中で、その結果が、実は相当程度秩序立っていることを見出した点にある[5]。予算は通例、期限内に承認され、連邦支出の総額は、戦争や不況の時期を除けば、税収とおおむね均衡していた[5]。ワイルダフスキーは、この分権的な過程が、いかなる中央の指令もなしに、秩序を生み出すに至った、相互の期待・規則・戦略を明らかにした点で、連邦予算過程における「アダム・スミス」にも例えられている[5]。
計算の方法としての漸増主義と、過程としての漸増主義
ワイルダフスキーの理論は、予算編成の参加者が、どのように計算を行うかという「計算の方法としての漸増主義」と、予算に関わる行為者間の関係の性質を描く「過程としての漸増主義」という、二つの側面を区別する[7]。前者は、個々の予算担当者の意思決定の様式を、後者は、予算編成に関わる複数の行為者(省庁、財務省、議会等)の間の、役割・規則・文化を含む、より制度的な関係性を扱う[7]。
日本の予算編成過程への接続
シーリングという制度化された漸増主義
日本の概算要求基準(シーリング)は、ワイルダフスキーが理論化した漸増主義の考え方が、制度として明示的に組み込まれた事例として理解できる【推論】。シーリングは、前年度予算を基準として、その一定割合の増減の範囲内で要求を行うことを、各省庁に義務づけるものであり、まさに「前年度の予算を基礎とし、狭い範囲の増減にのみ注意が向けられる」という、漸増主義の計算方法を、制度的に強制する仕組みとして機能してきた。
近年の変化——シーリングの例外化・弱体化
ただし、このシーリングという制度は、近年、その実効性を弱めてきている。シーリングの対象外とされる「例外事項経費」は、ゼロシーリングが採用された昭和57年度概算要求基準の時点で既に6,202億円に達しており、その後も増加を続け、平成7年度概算要求では17,800億円に達した[8]。さらに、平成3年度概算要求基準以降、特別枠の設定が始まり、これが恒常化していったことが、シーリング効果の弱体化を、いっそう促進した[8]。2026年度(令和8年度)予算の概算要求においても、通常歳出とは別枠で、要求上限を設けない「投資枠」が新設されるなど、シーリングという枠組み自体を部分的に迂回する制度設計が、継続的に進んでいる[9]。この変化は、ワイルダフスキー的な漸増主義の制度化が、時代を経て、徐々に例外によって侵食されていく過程として理解できる。
おわりに
本稿は、日本の予算編成過程(概算要求・シーリング・査定・復活折衝という四段階)と、この過程を理論的に基礎づける、ワイルダフスキーの漸増主義理論を整理した。日本のシーリング制度は、漸増主義を制度化した具体例として理解できる一方、近年の例外事項経費・特別枠の拡大は、この制度化された漸増主義が、徐々に侵食されつつある過程を示している。次稿ZP03では、官僚制の人事システムとジェネラリズムを扱う。
主要先行研究
Wildavsky(1964)[4]。日本の予算編成過程については、財務省公表資料、参議院予算委員会調査室資料[8]。
参考資料一覧
- 「予算編成」日本語版ウィキペディア。予算編成の四段階、財務省原案、復活折衝について。
- 「概算要求基準」日本語版ウィキペディア。制度の沿革(1961年、1985年、1998年の名称変更)について。
- 「概算要求とは」日本経済新聞。シーリングの機能について。
- Wildavsky, A. (1964). The Politics of the Budgetary Process. Little, Brown and Company.
- 「The New Politics of the Budgetary Process. By Aaron Wildavsky」(書評)。ワイルダフスキーの著書の意義、「秩序ある無秩序」の発見について。
- 「Still budgeting by muddling through: Why disjointed incrementalism lasts」(学術論文)。漸増主義の定義(Wildavsky, 1964, p.15)について。
- 同上。計算の方法としての漸増主義と、過程としての漸増主義の区別について。
- 藤井亮二「予算編成過程における『概算要求基準』~実効性が弱まるシーリング効果~」参議院予算委員会調査室・経済のプリズム。例外事項経費の推移、特別枠の恒常化について。
- 「概算要求とは?予算決定から補正予算までのスケジュールを解説」補助金ポータル(2026年8月時点の記事)。令和9年度概算要求における「投資枠」新設について。
用語集
- 概算要求, Budget Request, —, —: 各省庁が、翌年度予算に向けて必要な予算額をまとめ、財務省に提出する要求。
- 概算要求基準, Budget Request Ceiling, シーリング, —: 国の予算編成に先立って財務省が各省庁に示す予算方針。歳出の無制限な増大を抑制する機能を持つ。
- 復活折衝, Revival Negotiation, —, —: 財務省原案に盛り込まれなかった要求について、各省庁が財務省と行う交渉過程。
- 漸増主義, Incrementalism, —, —: 予算編成が、包括的な再検討としてではなく、前年度予算を基礎とした、狭い範囲の増減として行われるとする、ワイルダフスキーの理論。
Claude ログ
正確な典拠を確認してから執筆する。
引用番号[1]〜[9]の連番、全HTMLタグの対応が一致した。ZP02を執筆した。
主な内容
- 日本の予算編成過程:概算要求→シーリング(概算要求基準)→財務省主計局による査定→復活折衝→政府案という四段階を、財政制度等審議会の建議、財務省原案の内示という具体的な手続きとともに整理。概算要求基準の名称変遷(1961年「予算概算要求枠」→1985年「予算概算要求基準」→1998年以降の現行名称)も正確に追った
- ワイルダフスキーの漸増主義理論:1964年『予算編成過程の政治学』——予算編成が「包括的にではなく漸増的に」行われるという中心命題、分権的な過程がかえって秩序を生む「秩序ある無秩序」の発見(「連邦予算過程のアダム・スミス」という評価)、そして**「計算の方法としての漸増主義」と「過程としての漸増主義」**という理論的区別を整理
- 日本への接続(本稿の核心):シーリングを、漸増主義が制度として明示的に組み込まれた事例として位置づけた上で、近年の例外事項経費の増加(昭和57年度6,202億円→平成7年度17,800億円)、特別枠の恒常化(平成3年度以降)、そして2026年度(令和8年度)の「投資枠」新設(GX・AI・半導体等でシーリング自体を迂回)という最新の動向まで確認し、制度化された漸増主義が徐々に侵食されている過程として描いた
引用[1]〜[9]、参考資料一覧・用語集も本文に組み込み済み。全HTMLタグの対応を確認済み。
SNSリード文
なぜ新規事業より継続事業の方が予算を取りやすいのか——ワイルダフスキーの漸増主義理論と、日本の概算要求・シーリング・査定・復活折衝という四段階を整理。2026年度予算で新設された「投資枠」まで含め、制度化された漸増主義が近年どう侵食されているかを追う回です。(125文字)
タイトル案
- なぜ継続事業は強いのか——予算編成過程論を整理する
- 「秩序ある無秩序」——ワイルダフスキーが見出した予算政治学
- シーリングは侵食されている——2026年度「投資枠」新設の意味
次はZP03(官僚制の人事システムとジェネラリズム)の執筆に進んでよいか、確認したい。








