気候変動、災害、パンデミック、人口減少――現代の都市は、もはや「成長」だけでは語れません。都市はいかにして長く存続し、危機にしなやかに向き合えるのか。本稿は、持続可能性とレジリエンスという二つの概念を、都市理論史の中に位置づけます。ホリングの生態学的レジリエンスから、新自由主義的な「自己責任化」批判まで。誰のための持続可能性なのか、誰の脆弱性が放置されるのか。レジリエンスは技術ではなく正義の問題でもあるのです。都市理論シリーズ第十一弾。
※この文書は AI Claude、スライド資料、音声解説 は Gemini により生成されており誤りを含む恐れがあります。
目次
はじめに ― 都市は危機にどう向き合うのか
本連載は、これまで一貫して、都市を理解し、よりよくするための理論をたどってきました。シカゴ学派の都市社会学に始まり、コミュニティ論、都市政治経済学、成長機械論、都市レジーム論、ジェントリフィケーションと都市正義、グローバル都市論、都市計画思想、都市デザイン、そして前回の交通計画とTODまで、私たちは、都市がどのように成り立ち、誰によって作られ、統治され、計画され、設計されるのかを、さまざまな角度から探究してきました。
これらの議論の多くは、明示的にであれ暗黙にであれ、ある一つの前提を共有していました。それは、都市が「成長」し、あるいは少なくとも安定して存続していく、という前提です。成長機械論は、都市が成長を追求する仕組みを論じ、都市計画は、増大する人口や活動をいかに秩序づけるかを問い、TODは、持続可能な形での都市の発展を構想しました。しかし、現代の都市は、もはや「成長」だけでは語れなくなっています。
今日、世界の都市は、かつてない規模と複雑さをもつ、さまざまな危機に直面しています。第一に、気候変動です。地球の温暖化は、海面の上昇、異常気象の頻発、そして後で詳しく論じる熱波の常態化といった形で、都市の存立そのものを脅かしています。第二に、災害です。地震、津波、洪水、台風といった自然災害は、とりわけ日本のような災害多発国において、都市の脆弱さを、繰り返し露呈させてきました。第三に、パンデミックです。新型コロナウイルスの世界的な流行は、人々が密集して暮らす都市が、感染症に対してどれほど脆弱でありうるかを、私たちに痛感させました。第四に、エネルギー問題です。化石燃料への依存からの脱却と、エネルギーの安定的な確保は、都市の持続性をめぐる、切実な課題となっています。そして第五に、本連載でも繰り返し触れてきた、人口減少です。とりわけ日本において、人口の減少と高齢化は、これまでの成長を前提とした都市のあり方そのものの、根本的な見直しを迫っています。
こうした危機の時代にあって、都市理論は、新しい問いに直面することになりました。それは、「都市は、いかにして長期的に存続しうるのか」、そして「都市は、危機や変化に、いかに向き合い、適応しうるのか」という問いです。本稿が探究するのは、この問いをめぐって、都市理論の中で重要性を増してきた、二つの概念です。すなわち、持続可能性(sustainability)と、レジリエンス(resilience、回復力・適応力)です。
あらかじめ、本稿の立場を述べておきましょう。本稿は、環境政策を解説する記事ではありません。また、持続可能性を、単なる環境保護の問題に切り縮めたり、レジリエンスを、単なる防災の能力に切り縮めたりするものでもありません。むしろ本稿は、これらの概念が、都市理論の歴史の中で、なぜ、どのように重要になってきたのかを問い、そして、これまでの連載で培ってきた批判的な視座 — 成長機械論、都市レジーム論、都市正義 — を通じて、持続可能性とレジリエンスがはらむ、政治的な性格をも、見据えていきます。「持続可能性」や「レジリエンス」という、一見すると誰もが賛成しそうな美しい言葉が、実際には、誰の利益のために、誰に負担を強いる形で語られているのか — この問いを、本稿は手放しません。まずは、持続可能性という考え方が、どこから生まれてきたのかを、たどることから始めましょう。
持続可能な開発という考え方
持続可能性という言葉は、今日、あまりにも広く使われるようになり、かえってその意味が曖昧になっている感があります。この概念が、明確な形で国際的な議論の中心に据えられたのは、20世紀の後半、とりわけ1980年代のことでした。その画期となったのが、「持続可能な開発(sustainable development)」という考え方です。
ブルントラント報告と「我ら共有の未来」
持続可能な開発という考え方を、世界に広めた決定的な文書が、1987年に公表された、国連の「環境と開発に関する世界委員会」の報告書です。この委員会は、その委員長を務めたノルウェーの政治家、グロ・ハーレム・ブルントラント(Gro Harlem Brundtland)の名にちなんで、ブルントラント委員会とも呼ばれ、報告書は「ブルントラント報告」として知られています。報告書の正式な題名は『我ら共有の未来(Our Common Future)』です。
この報告書が示した、持続可能な開発の定義は、その後、繰り返し引用される、古典的なものとなりました。それは、持続可能な開発とは、「将来の世代が自らの必要を満たす能力を損なうことなく、現在の世代の必要を満たす開発である」という定義です。この定義の核心には、世代間の公平(intergenerational equity)という考え方があります。すなわち、私たちが、今の豊かさのために、地球の資源を使い尽くし、環境を破壊してしまえば、将来の世代は、その必要を満たすことができなくなる。だから、現在の開発は、将来の世代のことを考えて、持続可能な形で行われなければならない、というのです。
筆者の見るところ、ブルントラント報告の歴史的な意義は、環境の保全と、経済の開発とを、対立するものとしてではなく、両立すべきものとして捉える視座を、明確に打ち出した点にあります。それまで、環境保護と経済発展は、しばしば二者択一の問題として捉えられがちでした。ブルントラント報告は、この二項対立を乗り越え、長期的に持続可能な形での発展という、新しい枠組みを提示したのです。そして、この考え方は、その後の国際社会の、環境と開発をめぐる議論の、基本的な土台となりました。
トリプル・ボトムラインと三つの次元
持続可能性の考え方は、その後、より具体的な形へと展開されていきます。その一つが、トリプル・ボトムライン(triple bottom line)という考え方です。「ボトムライン」とは、もともと会計用語で、損益計算書の最終的な収支を意味します。トリプル・ボトムラインは、この発想を拡張し、組織や社会の成果を、単一の経済的な指標だけでなく、三つの次元で評価すべきだ、と論じます。この考え方は、もともと、企業経営の分野で提唱されたものでした。経営思想家のジョン・エルキントン(John Elkington)が、1997年に、企業の責任ある経営のあり方として打ち出した枠組みであり、それがその後、都市政策や持続可能性をめぐる議論へと、広く流入していったのです。
その三つの次元とは、経済(economy)、社会(society)、環境(environment)です。すなわち、ある活動や開発が持続可能であるためには、経済的に成り立つだけでなく、社会的に公正であり、かつ環境的に健全でなければならない、というのです。この三つの次元は、しばしば、相互に支え合うものとして、あるいは、三つが重なり合う領域にこそ真の持続可能性がある、という形で、図示されてきました。本稿の問題意識にとって重要なのは、この枠組みが、持続可能性を、環境の問題だけに切り縮めるのではなく、社会的な公正という次元を、明確に含めている点です。後で詳しく論じるように、持続可能性をめぐる議論において、この社会的な次元 — 誰のための持続可能性なのか、という問い — は、しばしば見落とされがちですが、本来は、その核心をなすものなのです。
SDGsと都市
持続可能性をめぐる国際的な議論は、21世紀に入り、2015年に国連で採択された、持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals、SDGs)へと結実します。SDGsは、貧困、飢餓、健康、教育、ジェンダー、エネルギー、気候変動など、17の目標からなる、2030年に向けた世界共通の目標です。本稿は、SDGsを解説する記事ではありませんので、その内容に深く立ち入ることはしません。しかし、本稿の主題にとって重要なのは、このSDGsの中に、都市を直接の対象とする目標が、含められている点です。
SDGsの第11の目標は、「住み続けられるまちづくりを」と訳され、都市と人間の居住地を、包摂的で、安全で、レジリエントで、持続可能なものにすることを掲げています。ここで注目すべきは、この目標が、持続可能性とともに、「レジリエント(resilient)」という言葉と、「包摂的(inclusive)」という言葉を、並べて用いている点です。これは、本稿が論じようとしている、持続可能性とレジリエンスという二つの概念が、そして、それらに公正・包摂という社会的な次元が、現代の都市をめぐる国際的な議論の中で、分かちがたく結びついていることを、示しています。都市は、いまや、国際社会が持続可能性を追求する上での、重要な舞台として位置づけられているのです。では、この持続可能性という理念は、都市のあり方として、具体的にどのような姿を描いてきたのでしょうか。
持続可能な都市という理想
持続可能な開発という理念は、都市の文脈において、「持続可能な都市(sustainable city)」という理想を生み出しました。では、持続可能な都市とは、どのような都市なのでしょうか。この理想は、これまでの連載で論じてきた、いくつかの議論と、深く結びついています。
コンパクトシティという構想
持続可能な都市の構想の中心にあるのが、第8回でも論じた、コンパクトシティ(compact city)の考え方です。これは、都市を、無秩序に拡散させるのではなく、コンパクトで、密度の高い構造へと集約しようとする構想です。
この構想が持続可能性と結びつく理由は、前回の第10回で論じた、自動車都市の問題を思い起こせば、明らかになります。第10回で見たように、自動車に依存した、低密度に拡散した都市 — 都市スプロール — は、深刻な問題を抱えていました。長距離の自動車移動による、エネルギーの浪費と温室効果ガスの排出。広大な自然と農地の喪失。そして、自動車を運転できない人々の排除です。こうした自動車依存の都市は、環境的にも、社会的にも、持続可能とはいえません。これに対してコンパクトシティは、都市機能を集約し、人々が、徒歩や自転車、公共交通で移動できるようにすることで、自動車への依存を減らし、エネルギーの消費と環境への負荷を抑えようとします。
さらに、コンパクトシティは、本連載が繰り返し触れてきた、高齢化社会への対応という観点からも、重要です。高齢化が進むと、自動車を運転できない高齢者が増えます。都市機能が拡散していれば、こうした人々は、移動に困難をきたし、生活が成り立たなくなります。コンパクトな都市は、生活に必要な機能を、歩いて行ける範囲に集約することで、高齢者をはじめとする、誰もが暮らしやすい都市を目指すものでもあるのです。
TODとコンパクトシティの関係
ここで、前回の第10回で論じたTOD(公共交通指向型開発)と、コンパクトシティとの関係を、改めて確認しておきましょう。両者は密接に関連していますが、同一のものではありません。この点は、慎重に区別する必要があります。
コンパクトシティは、都市を集約的な構造にするという、より広い理念です。それを実現するためには、土地利用の集約、生活サービスの再配置、既存の建物や土地の有効活用など、さまざまな政策の組み合わせが必要になります。TODは、その中で、鉄道駅などの公共交通の拠点を中心に、高密度で用途の混在した開発を行う、という具体的な手法を担うものです。すなわち、TODは、コンパクトシティを実現するための、有力な一つの手法であって、TODがそのままコンパクトシティであるわけではありません。コンパクトシティという目標は、TODだけに尽きるものではなく、より多面的な政策の総体を含むのです。この区別を踏まえた上で、両者が、持続可能な都市という理想を、ともに支える重要な要素であることを、確認しておきましょう。
エコシティとスマートシティ
持続可能な都市の構想は、コンパクトシティのほかにも、いくつかの形をとって展開されてきました。その一つが、エコシティ(eco-city)です。これは、環境との調和を、都市づくりの中心に据える構想であり、再生可能エネルギーの活用、緑地の保全、水やエネルギーの循環、生態系への配慮などを通じて、環境負荷の小さい都市を目指すものです。
そして、近年とりわけ注目を集めているのが、スマートシティ(smart city)です。これは、情報通信技術やデータを活用して、都市の機能を効率化し、持続可能性を高めようとする構想です。スマートシティの構想の中心には、ビッグデータ、センサー、そしてAI(人工知能)といった技術があります。都市のいたるところにセンサーを設置し、交通、エネルギー、環境、人々の動きといった、膨大なデータを収集・分析し、それに基づいて、都市の運営を最適化しようとします。たとえば、交通の流れをリアルタイムで把握して渋滞を減らす、エネルギーの需要を予測して効率的に供給する、といったことが、構想されています。
しかし、スマートシティについては、その理想を礼賛するだけでなく、向けられてきた重要な批判をも、見ておかなければなりません。第一に、技術決定論(technological determinism)への批判です。これは、技術さえ導入すれば都市の問題が解決する、という発想への批判です。都市の問題の多くは、本連載が論じてきたように、権力、利害、不平等といった、社会的・政治的な根をもっています。技術は、こうした問題を、自動的に解決してはくれません。技術への過度の期待は、問題の社会的な根を見失わせる危険があります。第二に、監視社会(surveillance society)への懸念です。都市のいたるところでデータを収集することは、人々の行動を、絶えず監視することにつながりかねません。第8回で触れた、フーコーの統治性の議論を思い起こせば、スマートシティの技術は、人々の生活を、細かく管理し、統制する権力の技術として作用しうるのです。誰が、どのようなデータを、何のために収集し、利用するのか — この問いは、きわめて重要です。第三に、デジタル格差(digital divide)の問題です。技術を使いこなせる人々と、そうでない人々のあいだに、新たな格差が生まれ、技術に基づく都市の便益が、一部の人々にしか及ばない、という危険があります。
筆者の見るところ、スマートシティは、持続可能な都市を実現する、有力な可能性をもつと同時に、新たな権力と格差を生み出す危険をも、はらんでいます。技術を、誰のために、どのように使うのか — この問いを抜きにして、スマートシティを語ることはできないのです。そして、この問いは、本稿が後で論じる、「誰のための持続可能性なのか」という、より大きな問いへとつながっていきます。
レジリエンスとは何か
持続可能性と並んで、現代の都市理論において重要性を増してきたのが、レジリエンス(resilience)という概念です。本稿の、理論的な中心をなす部分ですので、丁寧に論じていきましょう。レジリエンスは、しばしば「回復力」や「強靭性」と訳され、災害などに対する「防災の能力」として理解されがちです。しかし、この概念の知的な背景をたどると、それが、単なる防災の能力にとどまらない、はるかに豊かで、奥行きのある概念であることが見えてきます。
工学的レジリエンス ― 元に戻る力
レジリエンスという言葉は、もともと、さまざまな分野で用いられてきました。工学はもとより、心理学などの分野でも、それぞれの意味で用いられてきた言葉です。その最も基本的な意味の一つが、工学的レジリエンス(engineering resilience)と呼ばれるものです。これは、システムが、外部からの衝撃を受けて変化したあと、どれだけ速やかに、元の状態に戻れるか、という能力を指します。
たとえば、ばねを思い浮かべてみましょう。ばねは、力を加えると変形しますが、力を取り除くと、元の形に戻ります。この、元に戻る力、元の安定した状態へと復元する速さが、工学的レジリエンスです。この見方をレジリエンスの考えに当てはめると、レジリエントな都市とは、災害などの衝撃を受けても、速やかに元の状態へと復旧できる都市、ということになります。被災した都市が、いかに早く、もとの機能を取り戻すか — これは、確かに、レジリエンスの重要な一側面です。しかし、レジリエンスの概念は、この「元に戻る力」だけにとどまるものではありませんでした。むしろ、レジリエンスという概念を、都市理論にとって豊かなものにしたのは、これとは異なる、もう一つの考え方だったのです。
ホリングと生態学的レジリエンス
レジリエンスという言葉を、生態学の分野に導入し、その後のレジリエンス研究の方向性を、大きく変えたのが、生態学者のC・S・ホリング(C. S. Holling)です。彼が1973年に発表した論文は、生態学の分野に、レジリエンスという概念を、革新的な形で持ち込みました。レジリエンスという語そのものは、先に触れたように、工学や心理学などでもすでに用いられていましたが、ホリングは、それを生態系という複雑なシステムの理解へと結びつけ、新しい意味を与えたのです。
ホリングが提起したのは、生態学的レジリエンス(ecological resilience)という考え方です。彼の洞察は、こうです。生態系のような複雑なシステムは、工学的レジリエンスが想定するような、ただ一つの安定した状態をもつのではない。むしろ、複数の異なる安定した状態をもちうる。そして、システムは、衝撃を受けたとき、必ずしも元の状態に戻るのではなく、まったく別の状態へと移行してしまうことがある、というのです。
この考え方において、レジリエンスとは、「元に戻る速さ」ではなく、「システムが、その基本的な構造や機能を失って、別の状態へと移行してしまうことなく、どれだけの大きさの衝撃を吸収できるか」という能力として、捉え直されます。すなわち、レジリエンスとは、変化や攪乱を吸収しながら、システムが、自らのアイデンティティを保ち続ける能力なのです。ここで重要なのは、ホリングの生態学的レジリエンスが、システムが「変化する」ことを、前提にしている点です。工学的レジリエンスが、変化を打ち消して元に戻ることを重視するのに対し、生態学的レジリエンスは、システムが、変化を吸収し、変化しながらも、その本質を保ち続けることを重視します。レジリエンスとは、硬く変化に抵抗する強さではなく、しなやかに変化を受け止める能力なのです。
社会・生態システムと適応する力
ホリングの生態学的レジリエンスの考え方は、その後、生態系だけでなく、人間社会をも含む、より広いシステムへと、応用されていきました。その鍵となるのが、社会・生態システム(social-ecological systems)という概念です。これは、人間の社会と、自然の生態系とを、相互に結びついた、一つの複雑なシステムとして捉える見方です。都市は、まさに、人間社会と自然環境とが、複雑に絡み合った、社会・生態システムの典型といえます。
この枠組みにおいて、レジリエンスは、さらに豊かな意味を獲得します。それは、単に衝撃を吸収するだけでなく、衝撃から学び、自らを変化させ、よりよい状態へと適応していく能力をも含むようになります。この、学習し、適応し、変革していく能力を重視する考え方は、適応的レジリエンス、あるいは進化的レジリエンスとも呼ばれます。ブライアン・ウォーカー(Brian Walker)をはじめとする研究者たちは、こうした社会・生態システムのレジリエンスを、精緻に理論化してきました。また、関連して想起されるのが、共有資源(コモンズ)の管理を論じた、エリノア・オストロム(Elinor Ostrom)の研究です。ただし、オストロムの仕事は、持続可能な開発という系譜とは別に、人々が共有資源を持続的に管理しうる制度のあり方を、制度論的に解明したものであり、その独自の文脈で理解される必要があります。それでも、複雑なシステムを、人々がいかに持続的に管理しうるかという問いにおいて、その知見は、レジリエンスの議論とも、深く響き合うものです。
筆者の見るところ、ここで強調しておくべきは、レジリエンスを、単なる「防災の能力」や「元に戻る力」として理解することは、この概念がもつ豊かさを、大きく取り逃がしてしまう、ということです。真にレジリエントな都市とは、災害から速やかに復旧する都市であるだけでなく、危機や変化を吸収し、そこから学び、自らを変革しながら、その本質的な機能を保ち続ける、しなやかな都市なのです。そして、このように理解されたレジリエンスは、次回予告する複雑系の都市論とも、深く結びついていきます。都市を、予測も制御も困難な、複雑なシステムとして捉えるとき、レジリエンスは、その不確実性に向き合うための、重要な視座となるのです。
レジリエント・シティの時代
ホリングに始まる、豊かなレジリエンスの概念は、21世紀に入り、都市をめぐる政策と実践の領域で、大きな注目を集めるようになりました。「レジリエント・シティ(resilient city、しなやかな都市)」という言葉が、世界の都市政策の合言葉となっていったのです。本節では、この、レジリエンスが都市政策の中心へと躍り出た時代を、見ていきましょう。
都市を襲うさまざまな衝撃
レジリエンスが都市政策の重要なテーマとなった背景には、現代の都市が、実にさまざまな衝撃にさらされている、という現実があります。地震は、都市の建物やインフラを破壊し、多くの命を奪います。津波は、沿岸の都市を、根こそぎ押し流します。洪水は、気候変動の影響もあって、その頻度と規模を増しています。そして、近年とりわけ深刻化しているのが、熱波(heatwave)です。地球温暖化に伴い、都市を襲う極端な高温は、とりわけ高齢者や、冷房を使えない貧しい人々の、命を脅かしています。都市の構造そのものが熱をためこむ現象も、これを深刻化させています。
さらに、こうした自然の脅威に加えて、私たちは近年、パンデミックという、別の種類の衝撃を経験しました。後で改めて触れますが、新型コロナウイルスの流行は、人々が密集する都市が、感染症に対していかに脆弱でありうるかを、まざまざと示しました。これらの多様な衝撃にいかに向き合うかが、現代の都市の、避けられない課題となっているのです。
100のレジリエント・シティとロックフェラー財団
レジリエンスを都市政策の中心に据える動きを、世界的に推進した、象徴的な取り組みがあります。それが、アメリカのロックフェラー財団(Rockefeller Foundation)が、2013年に開始した、「100のレジリエント・シティ(100 Resilient Cities)」というプログラムです。
この取り組みは、世界の100の都市を選び、それぞれの都市が、レジリエンスを高めるための戦略を策定し、実行することを、支援するものでした。注目すべきは、このプログラムが、レジリエンスを、単なる自然災害への備えとしてではなく、より広く捉えていた点です。すなわち、急性の衝撃(地震や洪水といった、突発的な危機)だけでなく、慢性のストレス(貧困、失業、インフラの老朽化、社会的な分断といった、都市が日常的に抱える慢性的な問題)にも、目を向けていました。レジリエンスを高めるとは、突発的な災害に備えるだけでなく、都市が日常的に抱える脆弱さそのものに、取り組むことだ、という認識です。これは、先に論じた、レジリエンスの豊かな理解を、政策へと反映させようとする試みでした。
もっとも、このプログラムは、高く評価される一方で、批判も受けてきました。とりわけ、民間財団が主導する都市政策の形成については、いくつかの問いが投げかけられています。そうした取り組みが、誰の視点から、どのようなレジリエンスを推進するのか。財団の主導によって、レジリエンスの戦略が、グローバルに標準化されていくことに、問題はないのか。そして、都市の政策が、選挙で選ばれたわけではない民間主体によって方向づけられることの、民主的な正統性はどうか。これらの問いは、本稿が後の章で論じる、「誰のための持続可能性なのか」という、より大きな問いと、深く関わっています。この点は、改めて取り上げます。
レジリエンスを支える要素
では、都市のレジリエンスを高めるためには、何が必要なのでしょうか。レジリエンスの研究と実践は、いくつかの重要な要素を、明らかにしてきました。
第一に、冗長性(redundancy)です。これは、一つの機能を、複数の手段で担えるようにしておくことです。たとえば、エネルギーの供給源や、交通の経路を、複数用意しておけば、その一つが失われても、ほかの手段で機能を維持できます。効率だけを追求すれば、冗長性は無駄に見えますが、危機への備えとしては、この「余裕」が決定的に重要になります。第二に、多様性(diversity)です。これは、システムを構成する要素が、多様であることです。多様な要素からなるシステムは、特定の衝撃に対して、全体が一斉に倒れてしまうことが少なく、しなやかに対応できます。これは、第9回でジェイコブズが論じた、都市の多様性の議論とも、通じるものがあります。第三に、柔軟性(flexibility)です。これは、状況の変化に応じて、システムが、その構造や機能を、柔軟に変えられることです。硬直したシステムは、変化に対応できず、破綻します。第四に、学習能力(learning capacity)です。これは、危機の経験から学び、システムを改善していく能力です。先に論じた、適応的なレジリエンスの核心をなす要素です。これらの発想は、近年、危機をすべて防ぎきることを目指す「フェイルセーフ」の発想から、避けられない失敗を許容しつつ被害を抑える「セーフ・トゥ・フェイル」の発想への転換、として論じられることもあります。
コロナ禍が突きつけたもの
これらのレジリエンスの考え方を、私たちが、最も切実な形で経験することになったのが、新型コロナウイルスの世界的な流行 — コロナ禍 — でした。コロナ禍は、現代の都市のレジリエンスを、現実に試す、巨大な実験となったといえます。
コロナ禍は、都市について、多くのことを露呈させました。人々が密集する都市が、感染症に対して脆弱であること。グローバルに結びついた都市のネットワークが、感染症を瞬く間に世界に広げること。そして、医療や物流といった、都市を支える機能が、危機において、いかに重要であり、また脆弱でありうるか。同時に、コロナ禍は、都市の適応する力をも、示しました。多くの都市が、在宅勤務へと移行し、街路を歩行者や自転車のための空間へと、暫定的に作り変え(第9回で触れたタクティカル・アーバニズムの実践が、各地で見られました)、人々の活動のあり方を、急速に変化させていきました。これは、まさに、都市が衝撃を吸収し、変化しながら適応していく、レジリエンスの現れだったといえます。筆者の見るところ、コロナ禍は、都市のレジリエンスとは何かを、私たちに、具体的な経験として、考えさせる契機となったのです。
気候変動時代の都市
現代の都市が直面する危機の中でも、最も大きく、最も長期にわたる脅威が、気候変動です。本節では、この気候変動の時代に、都市がどのように向き合おうとしているのかを、見ていきましょう。気候変動への都市の対応は、大きく、二つの方向に整理することができます。緩和と適応です。
緩和と適応 ― 二つの方向
第一の方向が、緩和(mitigation)です。これは、気候変動の原因そのものに働きかけ、その進行を食い止めようとする取り組みです。具体的には、温室効果ガスの排出を削減することが、その中心となります。都市は、世界の温室効果ガスの、大きな部分を排出しているといわれます。したがって、都市において、エネルギーの消費を抑え、再生可能エネルギーへ転換し、自動車への依存を減らすこと(前回論じたTODやコンパクトシティは、まさにこの緩和に貢献します)は、気候変動を緩和する上で、決定的に重要です。
第二の方向が、適応(adaptation)です。これは、すでに起こりつつある、そして今後起こるであろう気候変動の影響に対して、都市が、被害を抑え、対応できるように備える取り組みです。たとえば、海面上昇や高潮に備えた防護、洪水に対応した排水システムの整備、熱波に備えた緑地や日陰の確保などが、これにあたります。緩和が、気候変動そのものを抑える長期的な取り組みであるとすれば、適応は、避けられない変化に、いかに向き合うかという取り組みです。先に論じたレジリエンスの考え方は、とりわけこの適応の文脈で、重要な意味をもちます。
グリーンインフラと自然に基づく解決策
気候変動への対応において、近年とりわけ注目されているのが、自然の力を活用するという発想です。その代表が、グリーンインフラ(green infrastructure)と、自然に基づく解決策(Nature-based Solutions、NbS)です。
従来、都市が、洪水や暑さといった問題に対処する際には、コンクリートの堤防や排水路、機械的な冷房といった、人工的な手段 — いわば「グレーインフラ」 — に頼ってきました。これに対してグリーンインフラは、樹木、緑地、湿地、河川といった、自然の要素を、都市の機能として活用しようとする考え方です。たとえば、緑地や街路樹は、雨水を吸収し、洪水を緩和するとともに、木陰を作り、都市の気温を下げる効果をもちます。湿地は、洪水を吸収する、自然の調整池として機能します。自然に基づく解決策(NbS)は、こうした、自然のもつ力を生かして、社会的な課題に対応しようとする、より広い考え方です。これらの発想は、第8回で触れたゲデスの生態学的な視点や、第1回のシカゴ学派の人間生態学にまで遡る、都市を自然との関係の中で捉える視座の、現代的な展開とも見ることができます。
15分都市 ― カルロス・モレノの構想
気候変動の時代の都市づくりの構想として、近年、世界的に大きな注目を集めているのが、15分都市(15-minute city)です。これは、フランスを拠点とする研究者、カルロス・モレノ(Carlos Moreno)が提唱した構想で、生活に必要な機能のすべて — 住まい、仕事、買い物、医療、教育、余暇 — に、徒歩や自転車で、おおむね15分以内にアクセスできる都市を目指すものです。
この構想は、これまで論じてきた、いくつかの議論と深く結びついています。徒歩圏に生活を集約するという発想は、第9回や第10回で論じた、ペリーの近隣住区論や、TODの理念と、思想的に通じています。また、自動車への依存を減らし、近距離の移動を徒歩や自転車で行えるようにすることは、気候変動の緩和にも、貢献します。コロナ禍において、人々が、身近な地域で生活することの価値を、再認識したことも、この構想への注目を後押ししました。筆者の理解では、15分都市は、レジリエンスや持続可能性、近接性、そして良い都市デザインといった、本稿や過去回で論じてきた複数の理念を、一つの分かりやすい形へと統合しようとする提案として、位置づけられます。それは、レジリエントな都市の「完成形」を示すものというより、複数の価値を結びつける一つの構想なのです。
もっとも、本稿の立場として、この15分都市を、無批判に礼賛することはしません。15分都市についても、いくつかの問いが提起されています。たとえば、生活機能を徒歩圏に集約することが、かえって地区ごとの分断を生み、人々を狭い地域に囲い込むことにならないか、という懸念です。また、後で論じるジェントリフィケーションの問題 — 魅力的な15分都市が整備された地区の地価が上昇し、もとの住民が排除される — も、当然、生じうるものです。15分都市は、魅力的な構想であると同時に、それが誰のために、どのように実現されるのかという、批判的な問いを、つねに伴うものなのです。この問いは、次の章で正面から論じる、「誰のための持続可能性なのか」という問題へと、私たちを導いていきます。
誰のための持続可能性なのか
ここまで、持続可能性とレジリエンスの概念と、それらが都市づくりにおいてとってきた形を、見てきました。しかし、本稿の最も重要な部分は、ここからです。本連載が一貫してとってきた批判的な視座 — とりわけ第4回の成長機械論、第5回の都市レジーム論、第6回の都市正義 — を通じて、持続可能性やレジリエンスという、一見すると誰もが賛成しそうな概念が、実は、深い政治的な性格をはらんでいることを、明らかにしていきます。問わなければならないのは、「誰のための持続可能性なのか」「誰のためのレジリエンスなのか」という問いです。
成長機械論から見た持続可能性
まず、第4回で論じた成長機械論(growth machine theory)の視座から、持続可能性を捉え直してみましょう。モロッチとローガンが論じたように、都市は、土地の交換価値を高めることで利益を得る、成長連合によって、成長へと駆り立てられる側面をもっていました。
この視座から見ると、持続可能性や、エコシティ、スマートシティといった理念が、しばしば、成長や開発を正当化する、新しい旗印として用いられている、という現実が見えてきます。「持続可能な開発」「グリーンな都市」「スマートな都市」といった言葉は、それ自体は魅力的ですが、実際には、それらが、新たな再開発や、不動産投資、地価の上昇を促す、装置として機能する場合があります。第6回や第10回でも論じたように、環境に配慮した、おしゃれで魅力的な街が整備されれば、その地区の価値は上がり、もとの住民が排除される — いわゆる「環境ジェントリフィケーション(green gentrification)」と呼ばれる現象も、指摘されています。持続可能性の旗のもとで、実際には、交換価値の増大を追求する成長連合の利害が、貫かれている場合があるのです。筆者の見るところ、ここで重要なのは、持続可能性そのものを否定することではなく、それが、誰の利益のために語られ、実行されているのかを、つねに問うことなのです。
都市レジーム論から見たレジリエンス
次に、第5回で論じた都市レジーム論(urban regime theory)の視座は、レジリエンスをめぐる政治を、照らし出します。レジーム論が明らかにしたのは、都市の統治が、行政と民間が資源を持ち寄って形づくる、持続的な協力関係によって成り立っている、ということでした。
この視座からレジリエンスを見ると、「誰が、どのようなレジリエンスを推進するのか」という問いが、浮かび上がります。先に触れた、ロックフェラー財団のような民間の主体が主導するレジリエンスの取り組みは、その一例です。レジリエンスを高めるための戦略が、誰の手によって策定され、誰の利害を反映するのか。資源をもつ主体 — 大企業、開発業者、財団 — の視点からのレジリエンスと、資源をもたない人々 — 低所得層、社会的に脆弱な人々 — の視点からのレジリエンスとは、必ずしも一致しません。レジリエンスもまた、第5回で論じた、都市の統治をめぐる権力と利害の構造の中で、形づくられているのです。
レジリエンス概念への批判 ― 新自由主義と自己責任化
ここで、レジリエンスという概念そのものに向けられてきた、重要な批判を、検討しなければなりません。本稿が、レジリエンスを礼賛するだけで終わらないために、これは不可欠の論点です。
批判の核心は、レジリエンスという概念が、新自由主義(neoliberalism)的な統治と、結びつきやすい、という点にあります。ジョナサン・ジョセフ(Jonathan Joseph)やデヴィッド・チャンドラー(David Chandler)といった論者は、この観点から、レジリエンス概念を鋭く批判してきました。どういうことでしょうか。レジリエンスは、衝撃に対して、自ら適応し、立ち直る能力を重視します。しかし、この「自ら適応する力」が強調されることは、裏を返せば、危機への対応の責任を、個人やコミュニティに、押しつけることにつながりかねません。すなわち、本来は、社会全体や政府が担うべき、人々を危機から守る責任が、「各自がレジリエントであれ」という形で、個人の自己責任へと転嫁されてしまう危険です。これを、レジリエンスの自己責任化(responsibilization)と呼びます。
たとえば、災害や経済的な危機に対して、政府が手厚い保護や支援を行うのではなく、「人々や地域が、自らレジリエンスを高めるべきだ」という形で、責任が個人へと押しつけられるとき、レジリエンスという言葉は、政府の責任の後退を、正当化する道具となってしまいます。これが、新自由主義的レジリエンスへの批判です。さらに、適応の押し付けという問題もあります。「変化に適応せよ」という要求が、すでに脆弱な立場にある人々に対して、本来は変えるべき不公正な構造そのものへの問いを封じたまま、ただ現状への順応を強いる形で、働くことがあるのです。
都市正義の視座 ― 格差と脆弱性
これらの批判の根底にあるのが、第6回で論じた、都市正義(urban justice)の問題です。ここで決定的に重要なのが、危機に対する脆弱性(vulnerability)が、社会の中で、決して平等には分布していない、という事実です。
同じ災害、同じ熱波、同じパンデミックに見舞われても、その被害は、人々のあいだで、大きく異なります。豊かな人々は、頑丈な住宅に住み、冷房を使い、安全な地域に避難し、危機から自らを守る手段をもっています。一方、貧しい人々、社会的に周縁化された人々は、脆弱な住宅に住み、危険な地域に追いやられ、危機に際して、最も大きな被害を受けます。すなわち、危機は、既存の社会的な不平等を、そのまま反映し、しばしば拡大するのです。気候変動においても、その影響を最も受けるのは、しばしば、それを引き起こした責任の最も小さい、貧しい人々や地域です。
この問題を、本連載で論じてきた理論家たちは、鋭く照らし出します。デヴィッド・ハーヴェイ(David Harvey)の視座からすれば、持続可能性やレジリエンスをめぐる都市の取り組みもまた、資本の論理と、その地理的な不均衡の中で捉えられなければなりません。スーザン・ファインスタイン(Susan Fainstein)の「ジャスト・シティ(公正な都市)」論からすれば、レジリエンスや持続可能性は、公平、多様性、民主主義という基準に照らして、評価されなければなりません。誰のレジリエンスが高められ、誰の脆弱性が放置されるのか、が問われるのです。そして、アイリス・マリオン・ヤング(Iris Marion Young)の差異の政治の視座からすれば、「持続可能な都市」や「レジリエントな都市」という一見中立的な理想が、実際には、特定の集団の経験やニーズを基準とし、ほかの集団の異なる経験やニーズを、見えなくしてしまう危険が、問われます。
筆者の見るところ、持続可能性とレジリエンスをめぐる議論の核心には、この、公正さの問題があります。真に持続可能で、真にレジリエントな都市とは、単に環境負荷が小さく、災害から速やかに復旧する都市ではありません。それは、危機の負担と、回復の恩恵とが、社会的に公正に分配され、最も脆弱な人々が、見捨てられることのない都市でなければならないのです。持続可能性とレジリエンスは、技術や環境の問題であると同時に、つねに、正義の問題なのです。
日本の都市は何を学んできたのか
ここで、視点を日本に転じましょう。日本は、災害多発国として、そして急速な人口減少に直面する社会として、持続可能性とレジリエンスをめぐって、独自の、そして貴重な経験を蓄積してきました。その経験を、成功と課題の両面から、見ていきましょう。
二つの大震災から学んだこと
日本の都市のレジリエンスをめぐる経験において、決定的な意味をもったのが、二つの大震災です。1995年の阪神・淡路大震災と、2011年の東日本大震災です。
阪神・淡路大震災は、近代的な大都市が、直下型の地震に対して、いかに脆弱でありうるかを、露呈させました。建物の倒壊、火災、インフラの寸断は、多くの命を奪いました。この経験から、日本は、建物の耐震化の重要性を、改めて認識するとともに、災害時における、地域コミュニティやボランティアの役割の重要性を、学びました。第2回で論じたコミュニティや社会関係資本の議論を思い起こせば、災害に際して、人々が互いに助け合える、地域のつながりの厚さが、レジリエンスの重要な要素であることが、見えてきます。
東日本大震災は、地震、津波、そして原発事故という、複合的な災害でした。とりわけ、巨大な津波が、沿岸の都市を壊滅させた経験は、私たちに、自然の脅威の大きさと、それに対する備えの難しさを、痛感させました。ここで一点、正確を期しておきましょう。被害を完全に防ぐのではなく、避けられない被害をいかに小さくするかという「減災」の考え方それ自体は、この震災以前から、防災の分野に存在していました。しかし、東日本大震災以降、巨大な災害をすべて防ぎきることの限界が、社会に強く共有され、減災の重要性が、いっそう強く認識されるようになった、といえます。これは、先に論じた、衝撃を吸収し、適応するという、レジリエンスの考え方とも、通じるものです。また、震災からの復興の過程では、被災した都市を、どのように再建するのか、誰の意向を反映して再建するのか、という、第8回で論じた都市計画の問いや、第6回で論じた都市正義の問いが、現実の切実な課題として、立ち現れました。
人口減少社会とコンパクト・プラス・ネットワーク
日本の都市が直面する、もう一つの大きな課題が、本連載で繰り返し触れてきた、人口減少です。人口が減少し、高齢化が進む中で、拡散した都市を、これまでどおり維持していくことは、困難になっています。インフラの維持、公共交通の維持、生活サービスの維持 — いずれも、人口の減少とともに、成り立たなくなりつつあります。
こうした中で、日本の国土政策・都市政策が掲げてきたのが、「コンパクト・プラス・ネットワーク」という考え方です。これは、都市機能を、拠点に集約してコンパクトにする(コンパクト)とともに、それらの拠点を、公共交通などのネットワークで結ぶ(ネットワーク)、という構想です。先に論じたコンパクトシティと、前回論じたTODやネットワークの考え方を、組み合わせたものといえます。これは、人口減少という条件のもとで、都市の持続可能性を、いかに確保するかという、日本なりの応答です。
富山市と宇都宮市 ― 成功と課題
こうした取り組みの具体的な事例として、しばしば取り上げられるのが、富山市と宇都宮市です。
富山市は、前回も触れたように、路面電車(LRT)を軸とした公共交通網を整備し、その沿線に居住や都市機能を誘導する、コンパクトな都市づくりを進めてきました。「お団子と串」と表現されるこの構想は、人口減少時代のコンパクトシティの先進的な事例として、国内外から注目されてきました。宇都宮市は、より近年になって、新たにLRTを整備し、それを軸とした都市づくりを進めている事例です。これらは、公共交通を基軸に、持続可能で、コンパクトな都市を目指す、注目すべき試みです。
もっとも、これらの事例を、成功談としてのみ語ることは、本稿の立場ではありません。課題も、率直に論じておく必要があります。第一に、こうした公共交通を軸としたコンパクトな都市づくりが、どこまで、実際に人々の居住や行動を変え、自動車依存を減らせるのかは、慎重に検証される必要があります。第二に、本稿が繰り返し論じてきた、公正さの問題です。都市機能を拠点に集約するということは、裏を返せば、集約される拠点の外側 — 周縁の地域 — を、どうするのか、という問いを伴います。拠点から外れた地域に住む人々、とりわけ移動の手段をもたない高齢者などが、取り残されてしまわないか。また、公共交通の整備によって魅力が高まった拠点の地価が上昇し、もとの住民が排除されることはないか。コンパクトな都市づくりは、誰のためのものなのか — この問いは、日本の事例においても、つねに問われ続けなければならないのです。
都市理論の中で考える持続可能性とレジリエンス
ここで、本稿で論じてきた持続可能性とレジリエンスを、本連載全体の中に、位置づけておきましょう。これらの概念は、孤立した新しいテーマではなく、これまで論じてきた都市理論の数々と、深く結びついています。
第4回の成長機械論との関係では、持続可能性やレジリエンスが、しばしば成長や開発を正当化する旗印として用いられうること、そして、それらが交換価値の増大を追求する成長連合の利害と結びつきうることを、見ました。持続可能性は、成長機械の論理を超えようとする理念であると同時に、その論理に取り込まれる危険をも、はらんでいるのです。
第5回の都市レジーム論との関係では、レジリエンスや持続可能性をめぐる取り組みが、都市の統治をめぐる権力と資源の構造の中で形づくられること、誰がそれを主導し、誰の利害を反映するのかが問われることを、見ました。第6回の都市正義との関係では、危機への脆弱性が社会的に不平等に分布していること、そして、持続可能性とレジリエンスが、つねに、誰のためのものなのかという、正義の問いを伴うことを、論じました。これが、本稿の批判的な議論の、中核をなしています。
第8回の都市計画思想との関係では、持続可能な都市やレジリエントな都市を、いかに計画するかという問いが、合理性、参加、ガバナンスをめぐる計画思想の議論と、結びつきます。第9回の都市デザインとの関係では、グリーンインフラや、人間中心の街路、15分都市といった構想が、良い都市空間をめぐる議論と、結びつきます。そして第10回のTODとの関係では、公共交通を基軸としたコンパクトな都市が、持続可能性とレジリエンスの、重要な手段となることを、見ました。
筆者の見るところ、持続可能性とレジリエンスは、本連載がこれまで積み上げてきた、都市をめぐるさまざまな問い — 都市は誰によって作られ、統治され、計画され、設計されるのか、そして都市は誰のためのものなのか — を、危機の時代という、新しい文脈の中で、改めて問い直すものです。それは、本連載のいわば集大成的な主題であると同時に、次回予告する、都市の複雑さと予測不可能性をめぐる議論へと、私たちを導く主題でもあるのです。
おわりに ― 都市は本当に計画可能なのだろうか
本稿では、危機の時代に、都市がどう向き合うのかという問いを軸に、持続可能性とレジリエンスという、二つの重要な概念を、たどってきました。最後に、その歩みを整理し、一つの問いを提示して、結びとしたいと思います。
本稿で見てきたことを、整理すれば、こうなります。持続可能性とは、都市を、将来の世代のことを考えながら、長期的に維持していくための視点です。それは、世代間の公平を核とし、経済・社会・環境という三つの次元の調和を目指す、長い時間軸に立った視座です。一方、レジリエンスとは、変化や危機に対する、都市の適応能力を考えるための視点です。それは、単に元に戻る力や、防災の能力にとどまらず、衝撃を吸収し、そこから学び、自らを変革しながら、その本質を保ち続ける、しなやかさを問う視座です。持続可能性が、長期的な維持に関わる視点であるとすれば、レジリエンスは、変化と危機への適応に関わる視点であり、両者は、危機の時代の都市を考える上で、互いを補い合っています。
そして、本稿が一貫して強調してきたのは、これらの概念が、決して中立的でも、技術的でもない、ということです。持続可能性も、レジリエンスも、つねに、「誰のためのものなのか」という、政治的で、倫理的な問いを伴います。それらが、成長や開発を正当化する旗印となるのか、それとも、最も脆弱な人々を守る理念となるのか。危機の負担と回復の恩恵が、公正に分配されるのか、それとも、既存の不平等を拡大するのか。持続可能性とレジリエンスは、技術の問題であると同時に、つねに、正義の問題なのです。
最後に、本稿の議論は、一つの根本的な問いを、私たちに突きつけます。それは、「都市は、本当に計画可能なのだろうか」という問いです。本連載は、第8回で都市計画を、第10回でTODを論じ、人間が、理性と構想によって、都市をよりよいものへと導いていく営みを、たどってきました。しかし、本稿で見てきた、気候変動、災害、パンデミックといった危機は、しばしば、私たちの予測を超え、計画を裏切ります。レジリエンスという概念が、まさに、変化と不確実性を前提としていたことを、思い起こしてください。都市は、私たちが思うほど、合理的に予測し、制御できるものなのでしょうか。それとも、都市とは、無数の要素が複雑に絡み合い、予測も制御も困難な、それ自体一つの生命のようなシステムなのでしょうか。
この問いは、次回、第12回の主題へと、私たちを導きます。次回は、「複雑系都市論と都市科学 ― 都市はなぜ予測できないのか」を扱います。都市を、複雑なシステムとして捉える視座から、なぜ都市が、私たちの計画や予測を、しばしば裏切るのか、そして、その予測不可能性と、私たちはどう向き合えばよいのかを、考えていきます。第9回で触れた、ジェイコブズの「組織化された複雑性」という洞察が、ここで、より大きな理論的文脈の中で、よみがえることになるでしょう。危機の時代の都市を考えてきた本稿から、都市の複雑さそのものを問う次回へ — 本連載の探究を、さらに進めていきたいと思います。本稿が、読者の皆さんにとって、都市理論の体系を見通し、自らの実践や研究を位置づけるための一助となれば幸いです。
参考文献
本稿は以下の文献に基づいています。原典の刊行年と版については、入手可能な版に応じて記載しています。可能な限り原典を優先し、邦訳のあるものは併記しました。
英語文献
- World Commission on Environment and Development (1987). Our Common Future. Oxford: Oxford University Press.
- Holling, C. S. (1973). Resilience and Stability of Ecological Systems. Annual Review of Ecology and Systematics, 4, 1–23.
- Holling, C. S. (2001). Understanding the Complexity of Economic, Ecological, and Social Systems. Ecosystems, 4(5), 390–405.
- Walker, B., & Salt, D. (2006). Resilience Thinking: Sustaining Ecosystems and People in a Changing World. Washington, D.C.: Island Press.
- Ostrom, E. (1990). Governing the Commons: The Evolution of Institutions for Collective Action. Cambridge: Cambridge University Press.
- Ahern, J. (2011). From Fail-safe to Safe-to-fail: Sustainability and Resilience in the New Urban World. Landscape and Urban Planning, 100(4), 341–343.
- Harvey, D. (1996). Justice, Nature and the Geography of Difference. Oxford: Blackwell.
- Fainstein, S. S. (2010). The Just City. Ithaca, NY: Cornell University Press.
- Young, I. M. (1990). Justice and the Politics of Difference. Princeton, NJ: Princeton University Press.
- Moreno, C., et al. (2021). Introducing the “15-Minute City”: Sustainability, Resilience and Place Identity in Future Post-Pandemic Cities. Smart Cities, 4(1), 93–111.
- Meerow, S., Newell, J. P., & Stults, M. (2016). Defining Urban Resilience: A Review. Landscape and Urban Planning, 147, 38–49.
- Joseph, J. (2013). Resilience as Embedded Neoliberalism: A Governmentality Approach. Resilience, 1(1), 38–52.
- Chandler, D. (2014). Resilience: The Governance of Complexity. London: Routledge.
- Elkington, J. (1997). Cannibals with Forks: The Triple Bottom Line of 21st Century Business. Oxford: Capstone.
- Vale, L. J., & Campanella, T. J. (Eds.) (2005). The Resilient City: How Modern Cities Recover from Disaster. Oxford: Oxford University Press.
日本語文献
- WCED (1987). 『地球の未来を守るために』大来佐武郎監修. 福武書店.
- モレノ, C. (2024). 『15分都市 ― 都市をリ・デザインする』牧尾晴喜訳. 早川書房.
- 饗庭伸 (2015). 『都市をたたむ ― 人口減少時代をデザインする都市計画』花伝社.
- 広井良典 (2009). 『コミュニティを問いなおす ― つながり・都市・日本社会の未来』筑摩書房.
- 金井利之 (2021). 『コロナ対策禍の国と自治体 ― 災害行政の迷走と閉塞』筑摩書房.
※ 本稿における事実の記述は上記文献に基づいていますが、「筆者の見るところ」「筆者の理解では」等と明記した箇所は筆者による解釈・整理であり、各文献の主張そのものではありません。レジリエンスという語自体は工学・心理学などでも用いられてきたものであり、ホリングはそれを生態学に導入してその後の研究の方向性を大きく変えた人物として位置づけられます。エリノア・オストロムの共有資源管理論は、ブルントラント報告に発する持続可能な開発の系譜とは別の、制度論的な研究であり、レジリエンス論と響き合うとしても、その独自の文脈で理解される必要があります。トリプル・ボトムラインは当初、企業経営の分野で提唱された概念です。持続可能性は環境保護のみに、レジリエンスは防災能力のみに切り縮められるべきではなく、いずれも社会的公正の次元を含む点に留意してください。とりわけレジリエンス概念には、新自由主義的な自己責任化を招きうるという重要な批判があり、本稿はこれを公平に扱うよう努めました。「100のレジリエント・シティ」のような民間財団主導の取り組みには、ガバナンスの民主性やグローバル標準化をめぐる批判も存在します。15分都市は、複数の理念を統合する一つの構想であって、レジリエントな都市の完成形を示すものではありません。「日本の都市」に関する記述は、成功と課題の両面からの解釈の試みであり、確定した評価ではありません。各概念や理論家の議論は、本稿では要点を整理したものであり、原典における議論はより複雑で多面的です。読者が引用される際は、原典にあたって確認されることをお勧めします。
年表 ― 持続可能性とレジリエンスの展開
- 1973年 ― ホリング「生態系のレジリエンスと安定性」。レジリエンス概念を生態学に導入し、その後の研究の方向性を大きく変える
- 1987年 ― ブルントラント報告『我ら共有の未来』。持続可能な開発を定義
- 1990年 ― オストロム『コモンズのガバナンス』。共有資源の持続的管理を制度論的に解明(持続可能な開発とは別系統)
- 1992年 ― 国連環境開発会議(リオ・サミット)。持続可能な開発の国際的潮流
- 1997年 ― エルキントン、トリプル・ボトムラインを提唱(当初は企業経営の分野)
- 2005年 ― ヴェイル&カンパネッラ『レジリエント・シティ』。都市の災害復興を論じる
- 2006年 ― ウォーカー&ソルト『レジリエンス・シンキング』。社会・生態システムの適応を論じる
- 2013年 ― ロックフェラー財団「100のレジリエント・シティ」開始(一方で民間財団主導への批判も)
- 2013年 ― ジョセフ「埋め込まれた新自由主義としてのレジリエンス」。レジリエンス批判の代表的論考
- 2015年 ― 国連でSDGs採択。目標11に持続可能な都市を掲げる
- 2015年 ― パリ協定。気候変動の緩和と適応の国際枠組み
- 2016年 ― ミーロウらによる都市レジリエンス定義のレビュー論文
- 2020年〜 ― コロナ禍が都市のレジリエンスを現実に試す
- 2021年 ― モレノら、ポストパンデミックの15分都市を論じる(複数の理念を統合する構想)
- (背景)1972年 ― ローマクラブ『成長の限界』。地球の有限性への警鐘
- (日本)1995年 ― 阪神・淡路大震災。都市の耐震化とボランティアの重要性
- (日本)2006年 ― 富山ライトレール開業。コンパクトシティの先進事例
- (日本)2011年 ― 東日本大震災。以降、減災の重要性がより強く認識される
- (日本)2014年 ― 国土のグランドデザイン2050。コンパクト・プラス・ネットワーク提唱
- (日本)2023年 ― 宇都宮ライトレール開業。新規LRTによる都市づくり
- (日本)近年 ― 国土強靭化、立地適正化計画によるコンパクトシティ政策の推進
用語集
本稿および持続可能性・レジリエンス論の理解に関連する主要な用語・人名・著作を示します(添付リストに既収載の用語、および前稿までで扱った用語は除外)。形式は「英語, 用語(英語と異なる場合), 正式名称(用語と異なる場合), 略称(と異なる場合): 解説」です。
理論・概念
- Sustainability, 持続可能性: 都市や社会を、将来世代の必要を損なわずに長期的に維持していくための視点。環境・社会・経済の調和を含む。
- Sustainable Development, 持続可能な開発: 将来世代の能力を損なわずに現在世代の必要を満たす開発。ブルントラント報告の定義。
- Intergenerational Equity, 世代間の公平: 現在世代が将来世代の必要を満たす能力を損なってはならないという、持続可能性の核心的理念。
- Engineering Resilience, 工学的レジリエンス: システムが衝撃後にどれだけ速く元の状態に戻れるかという能力。単一の安定状態を前提とする。
- Ecological Resilience, 生態学的レジリエンス: システムが構造・機能を失って別状態へ移行せずに、どれだけ衝撃を吸収できるかという能力。ホリングが生態学に導入。
- Social-Ecological Systems, 社会・生態システム, , , SES: 人間社会と自然生態系を相互に結びついた一つの複雑なシステムとして捉える概念。都市はその典型。
- Adaptive Resilience, 適応的レジリエンス: 衝撃を吸収するだけでなく、そこから学び自らを変革し適応していく能力を重視するレジリエンス観。
- Responsibilization, 自己責任化: 本来は社会や政府が担うべき危機対応の責任が、レジリエンスの名のもとに個人やコミュニティへ転嫁されること。レジリエンス批判の核心。
- Neoliberal Resilience, 新自由主義的レジリエンス: レジリエンス概念が、政府の責任後退や自己責任化を正当化する道具として用いられる現象への批判的呼称。
- Vulnerability, 脆弱性: 危機に対する弱さ。社会の中で不平等に分布し、貧しい人々ほど大きな被害を受ける。都市正義の鍵概念。
- Green Gentrification, 環境ジェントリフィケーション: 環境配慮型の整備が地区の価値を高め、結果的にもとの低所得住民を排除する現象。
- Eco-city, エコシティ: 環境との調和を中心に据え、再生可能エネルギー・緑地・循環などにより環境負荷を抑える都市の構想。
- Mitigation, 緩和: 気候変動の原因(温室効果ガス排出)そのものに働きかけ、その進行を抑える取り組み。
- Adaptation, 適応: すでに起こりつつある気候変動の影響に対し、被害を抑え対応できるよう備える取り組み。
- Green Infrastructure, グリーンインフラ: 樹木・緑地・湿地・河川など自然の要素を都市の機能(治水・気温調整など)として活用する考え方。
- Safe-to-fail, セーフ・トゥ・フェイル: 失敗を完全に防ぐ「フェイルセーフ」に対し、避けられない失敗を許容しつつ被害を抑える、レジリエンス志向の設計思想。
- Redundancy, 冗長性: 一つの機能を複数の手段で担えるようにしておくこと。レジリエンスを支える要素。
- Learning Capacity, 学習能力: 危機の経験から学びシステムを改善していく能力。適応的レジリエンスの核心。
- Compact Plus Network, コンパクト・プラス・ネットワーク, , , : 都市機能を拠点に集約し、それらを公共交通網で結ぶ日本の国土・都市政策の構想(添付に英語表記あり、訳語を補記)。
人名
- Gro Harlem Brundtland, グロ・ハーレム・ブルントラント: ノルウェーの政治家。国連の環境と開発に関する世界委員会の委員長。持続可能な開発の概念を世界に広めた。
- C. S. Holling, C・S・ホリング: カナダの生態学者。1973年にレジリエンス概念を生態学に導入し、その後のレジリエンス研究の方向性を大きく変えた。
- Brian Walker, ブライアン・ウォーカー: 社会・生態システムのレジリエンスを理論化したオーストラリアの生態学者。『レジリエンス・シンキング』の著者。
- Timon McPhearson, ティモン・マクファーソン: 都市生態系とレジリエンスを研究する都市生態学者。
- John Elkington, ジョン・エルキントン: 企業経営の分野でトリプル・ボトムラインの概念を提示した経営思想家。
- Jonathan Joseph, ジョナサン・ジョセフ: レジリエンスを「埋め込まれた新自由主義」として統治性の観点から批判した政治学者。
- David Chandler, デヴィッド・チャンドラー: レジリエンスを複雑性の統治として論じ、批判的に検討した国際政治学者。
著作
- Our Common Future, 『我ら共有の未来』: 1987年のブルントラント報告。持続可能な開発を定義した古典的文書。
- Resilience and Stability of Ecological Systems, 「生態系のレジリエンスと安定性」: ホリングが1973年に発表し、レジリエンス概念を生態学に導入した論文。
- Resilience Thinking, 『レジリエンス・シンキング』: ウォーカーとソルトによる、社会・生態システムのレジリエンスの入門的著作。
- Governing the Commons, 『コモンズのガバナンス』: オストロムが1990年に著した、共有資源の持続的な自主管理を制度論的に論じた著作。
- The Resilient City, 『レジリエント・シティ』: ヴェイルとカンパネッラ編による、近代都市の災害からの復興を論じた著作。
※ 用語の訳語・解説は本稿の文脈に即したものです。レジリエンス、持続可能性関連の基幹語、カルロス・モレノ、15分都市、コンパクトシティ、スマートシティ、オストロム、ハーヴェイ、ファインスタイン、ヤング、トリプル・ボトムライン、自然に基づく解決策(NbS)など多くの語は添付リストに既収載のため、本用語集では未収載の概念・人物・著作を中心に補いました。レジリエンスという語自体は工学・心理学などでも存在し、ホリングはそれを生態学に導入した人物です。オストロムの共有資源管理論は持続可能な開発の系譜とは別系統である点、トリプル・ボトムラインが当初は企業経営の分野で提唱された点に留意してください。持続可能性は環境保護のみに、レジリエンスは防災のみに切り縮められるべきではなく、いずれも社会的公正の次元を含みます。レジリエンスには自己責任化を招きうるという批判が伴い、また民間財団主導のレジリエンス政策にはガバナンスの民主性をめぐる批判も存在します。次稿は複雑系都市論と都市科学(都市はなぜ予測できないのか)を主題とします。学術的に厳密な定義は各原典・専門事典をご参照ください。










