交通は「自由」だった ケイパビリティと交通正義の時代

本レポートは交通研究史シリーズの第7回(最終回)であり、第1回「流れ」、第2回「需要」、第3回「到達」、第4回「都市」、第5回「社会」、第6回「不平等」に続く。ただし前回までの結論を前提とはしない。本稿で検証する中心仮説は「21世紀に入り、一部の交通研究は、移動量やアクセシビリティの測定だけでなく、人々が望む生活を実現する自由や機会そのものを分析対象とするようになった」である。この命題が歴史的・学術的エビデンスによって支持されるか否かを、研究史・学説史・概念史の整理として検証する。結論を先に決めず、文献に基づいて判定する。本稿は、研究者がどのような理論を提示し、それにどのような支持・批判が存在したかを整理するものであり、何が正義かを独自に論じるものではない。本稿は提言・政策提案・将来予測・独自理論・規範的主張・読者への提案を含まない。事実と推論を厳格に区別し、推論には [推論]…[/推論] の形式を用いる。学説間に対立がある場合は「見解が分かれている」、根拠が不足する場合は「不明」と明記する。

目次

本レポートの対象と方法Scope and Method

本稿が検証の対象とするのは、21世紀に入り、一部の交通研究が、移動量やアクセシビリティの測定だけでなく、人々が望む生活を実現する自由や機会そのものを分析対象とするようになったと言えるか否かである。第1回から第6回までは、交通の捉え方が「流れ」「需要」「到達」「都市構造」「社会的構成」「不平等」へと拡張してきたかを検証した。本稿が問うのは、その先にある転換──交通研究が、移動やアクセシビリティを測ることから、それらが人々の生き方の自由にとって何を意味するかを評価する基準を導入したか否か──である。

検証する中心仮説
「21世紀に入り、一部の交通研究は、移動量やアクセシビリティの測定だけでなく、人々が望む生活を実現する自由や機会そのものを分析対象とするようになった」。本稿はこの命題を前提とせず、文献上確認できる事実を積み上げた結果として、支持される部分・支持されない部分・不明な部分を分けて整理する。

第6回までとの関係Relation to the Previous Parts

第6回(不平等)は、交通研究が、移動機会の差異や排除の構造を記述・測定する段階に達したことを検証した。それは、不平等が「存在する」ことの発見であった。本稿が検証するのは、その次の段階──不平等を記述するだけでなく、それを「自由」「機会」「正義」といった規範的な評価基準のもとで捉える研究が現れたか否か──である。すなわち、第6回が「不平等の発見」だとすれば、本稿が問うのは「評価基準の登場」である。両者は、記述(何があるか)と評価(それをどう測る基準を導入するか)という点で、段階を異にする。

推論
[推論]第6回の不平等研究が、移動機会の差異を記述・測定する段階であったとすれば、その差異を「不利」「排除」と呼ぶこと自体に、すでに何らかの評価が含まれていた可能性がある。本稿が検証する「自由・機会・正義」の研究は、その潜在的な評価基準を明示化し、理論的に基礎づけようとする試みとして現れた可能性がある。すなわち、記述から評価への移行は、断絶ではなく、記述に暗黙に含まれていた評価的契機の明示化として生じた可能性がある。ただし、これは解釈であり、以下で文献に即して検証する。[/推論]

本稿の位置づけ――学説史としてThis Report as Intellectual History

本稿は、「何が正義か」「移動の自由はどうあるべきか」を独自に論じるものではない。本稿が整理するのは、交通研究者が、どのような理論(潜在能力アプローチ、交通の正義、移動の正義など)を導入し、何を問題視し、それに対してどのような支持・批判が存在したか、という学説史・概念史である。すなわち、本稿はこれらの正義論を支持も批判もせず、それらが交通研究のなかでどう用いられたかを記述する。規範的な主張は、本稿が検証の対象とする研究者たちのものであり、本稿自身のものではない。

情報源と引用Sources and Citation

本稿は、査読付き学術論文、学術出版社の書籍、政府・国際機関資料、大学研究機関資料を主たる典拠とし、研究機関レポート・専門家の解説を補助的に用いる。とくに、交通における正義・公平・潜在能力アプローチの研究史を扱うレビュー文献(ペレイラ、シュワネン、バニスター2017年、ヴェッキオとマルテンス2021年ら)を優先的に参照する。各事項には引用番号 [n] を付し、末尾の参考文献に対応させる。出典が確認できない情報は用いない。事実として確認できる事項のみを本文に記し、複数の研究から導く解釈には [推論]…[/推論] のタグを付す。学説間に対立がある場合は「見解が分かれている」、根拠が不足する場合は「不明」と明記し、推測による補完は行わない。

なぜ「自由」が論点になったのかWhy “Freedom” Became a Question

本章では、交通研究において「自由」「機会」が論点として現れた背景を、前章までの整理を踏まえて述べる。これは、本稿の検証する問いの前提にあたる。

測定から評価へFrom Measurement to Evaluation

第1回から第6回で見た交通研究は、移動を、流量・需要・到達可能性・都市構造・社会的構成・不平等として捉えてきた。これらの多くは、移動や機会を測定・記述することを主眼とした。しかし、不平等の研究(第6回)が進むと、「ある集団のアクセシビリティが低い」という記述だけでは答えられない問いが現れる。すなわち、それはどの程度問題なのか、何を基準に「不利」と判断するのか、どの状態であれば「十分」と言えるのか、という問いである。これらは、測定の問いではなく、評価の基準をめぐる問いである。

推論
[推論]不平等の記述が、それをどう評価するかという基準への問いを呼び起こすとすれば、交通研究が評価基準(自由・機会・正義)を導入したのは、不平等研究の内在的な要請であった可能性がある。すなわち、「誰のアクセシビリティが低いか」を測れば測るほど、「それはなぜ問題なのか」という規範的な問いが避けがたくなる。本稿が検証する対象の拡張は、測定の精緻化がそれ自体として評価基準への問いを生んだ、という連関のなかで生じた可能性がある。ただし、評価基準の導入が外部の哲学からの借用であった面もあり、この点は以下で検証する。[/推論]

理論的起源――潜在能力アプローチTheoretical Origins: The Capability Approach

本章では、交通研究に入る前に、その評価基準の主要な源泉となった潜在能力アプローチ(capability approach)の理論的起源を整理する。これは、交通研究の外部で形成された理論である。

センの問い――「何の平等か」Sen’s Question: “Equality of What?”

潜在能力アプローチは、経済学者・哲学者アマルティア・センによって展開された。センは、福祉や平等を評価する際に、何を基準とすべきかを問うた。彼は、所得や資源(財の保有量)、あるいは効用(主観的な満足)を基準とする従来の見方に対し、それらは人が実際に何をなしうるかを十分に捉えないと論じた[1]。同じ財をもっていても、それを活用できる能力は人により異なる(たとえば、同じ自転車でも、健常者と障害者では、それによって実現できる移動が異なる)。センは、評価の基準を、財でも効用でもなく、人が価値をおく生き方を実現する自由──潜在能力(capability)──に置くことを提唱したとされる[1]

機能と潜在能力Functionings and Capabilities

センのアプローチの中心には、二つの概念がある。機能(functionings)と潜在能力(capabilities)である。機能とは、人が実際に達成している状態や活動(十分な栄養がある、健康である、移動している、社会生活に参加している、など)を指す。潜在能力とは、そうした機能の組み合わせを実現する実質的な自由、すなわち、人が達成しうる機能の選択肢の幅を指すとされる[1]。重要なのは、実際に達成された機能だけでなく、達成しうる自由(選択肢)に着目する点である。アルカイア(2003年)の整理を借りれば、潜在能力アプローチは、社会の制度を、人々が価値をおく機能を促進・達成する自由の程度によって評価すべきだとする規範的な提案である[2]

確認できる事実
潜在能力アプローチ(セン、ヌスバウム)は、福祉・平等を、財の保有や効用ではなく、人が価値をおく生き方を実現する自由(潜在能力)によって評価する規範的な枠組みである[1][2]。中心概念は、達成された状態(機能)と、それを達成しうる自由(潜在能力)である[1]

ヌスバウムの中心的潜在能力Nussbaum’s Central Capabilities

哲学者マーサ・ヌスバウムは、センのアプローチを発展させ、人間の尊厳ある生にとって不可欠な「中心的潜在能力(central capabilities)」のリストを提示したとされる[3]。ヌスバウム(2003年)は、潜在能力を基本的な権原(fundamental entitlements)として捉え、生命、身体の健康、身体の保全、感覚・想像力・思考、移動(身体的に自由に移動できること)などを含む項目を列挙したとされる[3]。センが潜在能力のリストを固定することに慎重であったのに対し、ヌスバウムは具体的なリストを示した点で、両者のあいだには方法上の違いがある[3]

推論
[推論]ヌスバウムの中心的潜在能力のリストに、身体的に自由に移動できることが含まれるとすれば、移動は、潜在能力アプローチにおいて、人間の尊厳ある生の構成要素の一つとして位置づけられうる。これは、移動を、それ自体が目的ではなく活動への手段とみなす派生需要の考え方(第2回)とは、異なる位置づけである。すなわち、潜在能力アプローチのもとでは、移動の自由は、手段であると同時に、人間の基本的な能力の一部でもありうる。この二重性が、交通研究が潜在能力アプローチを取り込む際の論点となった可能性がある。ただし、移動を独立した潜在能力とみなすか、他の潜在能力への手段とみなすかについては、後述するように見解が分かれる。[/推論]

交通研究の外部からの借用A Borrowing from Outside Transport Research

潜在能力アプローチは、開発経済学・厚生経済学・政治哲学の領域で形成された。国際連合の人間開発指数(Human Development Index)の理論的基礎の一つともなり、開発・福祉の評価に広く用いられた。すなわち、このアプローチは、交通研究の内部から生まれたのではなく、その外部の理論として確立した後に、交通研究へ取り込まれた。ロベインズ(2017年)らによる潜在能力アプローチの体系的な整理は、この枠組みが、福祉・自由・社会正義を論じる一般的な理論として展開したことを示す[2]

推論
[推論]潜在能力アプローチが交通研究の外部で形成され、その後に取り込まれたとすれば、交通研究における「自由」への関心は、第5回(社会学からのモビリティーズ)・第6回(社会政策からの社会的排除)と同様に、外部の理論的潮流が交通研究へ流入することによって生じた可能性がある。すなわち、本稿の中心仮説がいう対象の拡張は、交通研究が、隣接する諸学(社会学・社会政策・政治哲学)との境界において、繰り返し対象を広げてきた過程の、最新の局面として理解できる可能性がある。[/推論]

潜在能力アプローチの交通研究への導入The Capability Approach Enters Transport Research

本章では、潜在能力アプローチが、交通研究のなかにどのように導入されたかを整理する。これは、本稿の中心仮説に直接関わる。

アクセシビリティを潜在能力として捉えるAccessibility as a Capability

交通研究において潜在能力アプローチが用いられる際の中心的な発想は、アクセシビリティ(第3回の主題)を、一つの潜在能力として捉えることである[4]。すなわち、活動機会へ到達できること(アクセシビリティ)は、人が価値をおく生き方を実現する自由の一部であり、潜在能力アプローチの枠組みで評価されうる、という見方である。ヴェッキオとマルテンス(2021年)は、潜在能力アプローチと移動・アクセシビリティを結びつける文献をレビューし、この結びつきが、分配的正義に関心をもつ交通研究のなかで近年増大していると整理したとされる[4]

ヴェッキオとマルテンス(2021年)によれば、移動を潜在能力として捉える文献は、増大しているものの、なお散在的であり、潜在能力アプローチの鍵となる概念(機能潜在能力・転換要因など)が、研究によって異なる、しばしば部分的な仕方で概念化・操作化されているとされる[4]。すなわち、潜在能力アプローチの交通研究への導入は、進行しつつあるが、統一的な方法に結実してはいない。

確認できる事実
交通研究における潜在能力アプローチの中心的な用法は、アクセシビリティを人間の潜在能力(価値ある生き方を実現する自由)の一部として捉えることである[4]。この結びつきを扱う文献は増大しているが、概念の操作化は研究により異なり、なお散在的であるとされる[4]
推論
[推論]アクセシビリティ潜在能力として捉え直されたことは、第3回で測定の対象であったアクセシビリティが、第7回では評価の基準(人の自由の構成要素)へと、位置づけを変えたことを示すと解釈できる。すなわち、同じアクセシビリティという概念が、測るもの(第3回)から、それによって人の自由を評価する基準(第7回)へと転換した。本稿の中心仮説がいう、測定から自由・機会の分析への拡張は、アクセシビリティ概念の意味の転換として、具体的に現れた可能性がある。[/推論]

移動量・効用との対比Contrast with Travel Volume and Utility

潜在能力アプローチの導入は、従来の交通研究の評価基準との対比において、その特徴が際立つ。第1回の交通工学は移動量・速度を、第2回の交通経済学は効用(便益から費用を引いたもの)を、評価の基準とした。費用便益分析は、交通の便益を金銭価値に換算し、合計する。これに対し、潜在能力アプローチは、評価の基準を、移動量でも効用の合計でもなく、人が価値ある生き方を実現する自由の分配に置く[4]。したがって、ある交通政策が、たとえ総便益を増やしても、最も不利な人々の潜在能力を改善しなければ、潜在能力アプローチのもとでは肯定的に評価されないことになる[5]

推論
[推論]潜在能力アプローチが、評価の基準を効用の合計から自由の分配へと移すとすれば、これは、第2回で見た費用便益分析の前提(便益を合計して最大化する功利主義的な発想)への、明示的な対抗として現れたと解釈できる。すなわち、潜在能力アプローチの交通研究への導入は、単に新しい主題を加えたのではなく、交通政策を評価する基準そのものをめぐる、理論的な対立を持ち込んだ可能性がある。本稿の中心仮説がいう対象の拡張は、評価基準をめぐる論争という形をとった可能性がある。[/推論]

客観的アクセシビリティと経験されるアクセシビリティConceived and Perceived Accessibility

本章では、潜在能力アプローチが、アクセシビリティの捉え方に何をもたらしたかを、客観的に測られるアクセシビリティと当事者に経験されるアクセシビリティの区別を通じて整理する。これは、第5回のモビリティーズ研究と本稿の正義論との接点をなす。

測られるアクセシビリティの限界The Limits of Measured Accessibility

第3回で見たアクセシビリティ指標は、ある場所から到達しうる機会の量を、客観的・定量的に測る(conceived accessibility、構想されたアクセシビリティ)。しかし、潜在能力アプローチが、人が価値をおく生き方を重視することから、客観的に測られたアクセシビリティが、必ずしも当事者にとっての実質的な到達可能性と一致しないことが論点となった[4]。たとえば、地図上は近くに機会があっても、安全への不安、身体的制約、情報の欠如により、当事者にとっては実際には到達しにくい場合がある。すなわち、測られたアクセシビリティと、経験されるアクセシビリティ(perceived accessibility)は、ずれうる。

推論
[推論]潜在能力アプローチが、測られたアクセシビリティと経験されるアクセシビリティのずれを論点としたとすれば、この枠組みは、第3回の客観的なアクセシビリティ測定を、当事者の視点から相対化したと解釈できる。すなわち、人の自由を評価するには、機会が客観的に存在するかだけでなく、その人がそれを実質的に活用できるか(転換要因)が問われる、というセンの発想が、アクセシビリティ研究に持ち込まれた。本稿の中心仮説がいう「自由の分析」は、アクセシビリティを、外から測る量から、当事者にとっての実質的な自由へと、捉え直すことを含んだ可能性がある。[/推論]

転換要因という概念The Concept of Conversion Factors

潜在能力アプローチには、転換要因(conversion factors)という概念がある。これは、財・資源を、実際に達成しうる機能へと転換する能力に影響する要因であり、個人的要因(身体能力・技能など)、社会的要因(制度・規範・差別など)、環境的要因(インフラ・気候など)に分けられる[2][4]。交通の文脈では、同じ交通サービス(資源)が与えられても、これらの転換要因によって、人が実際に実現できる移動・到達は異なる。ヴェッキオとマルテンス(2021年)は、転換要因の概念が、移動・アクセシビリティ研究において重要でありながら、その操作化が研究によって異なると整理したとされる[4]

推論
[推論]転換要因の概念が、同じ交通資源でも個人・社会・環境の要因によって実現できる移動が異なることを捉えるとすれば、潜在能力アプローチは、第6回で見た交通不利の研究(誰が、なぜ移動できないか)を、理論的に基礎づける枠組みを提供したと解釈できる。すなわち、第6回が経験的に記述した不利の多様なメカニズムは、第7回の転換要因の概念によって、統一的に位置づけられうる。本稿の中心仮説がいう対象の拡張は、第6回の経験的知見と、第7回の規範理論とを、転換要因という概念で接続する可能性を含んでいた。[/推論]

モビリティーズ研究との接点The Link to Mobilities Studies

経験されるアクセシビリティ、当事者の視点への着目は、第5回で見たモビリティーズ研究と関心を共有する。ヴェッキオとマルテンス(2021年)は、潜在能力アプローチが、モビリティーズ研究(シェラーとアーリ)に由来する移動の豊かな理解を、どこまで考慮しうるかを論点として挙げたとされる[4]。すなわち、移動の意味・経験・実践(第5回)を、潜在能力アプローチの評価枠組みにどう組み込むかが、論点となった。これは、第5回(社会)と第7回(自由)を接続する論点である。

推論
[推論]潜在能力アプローチが、モビリティーズ研究の移動の理解をどう取り込むかを論点とするとすれば、第7回の正義論は、第6回(不平等)だけでなく第5回(社会)とも接続する位置にあると解釈できる。すなわち、本稿の中心仮説がいう「自由や機会の分析」は、定量的なアクセシビリティ研究(第3回)、社会学的なモビリティーズ研究(第5回)、社会政策的な不平等研究(第6回)という、性格の異なる複数の系統を、潜在能力正義という枠組みのもとで結びつけようとする試みであった可能性がある。ただし、この結びつきがどの程度成功したかは、操作化の困難ゆえに、なお未確定である。[/推論]

マルテンスの交通正義論Martens’s Theory of Transport Justice

本章では、交通正義(transport justice)の議論を体系化した代表的研究として、カレル・マルテンスの議論を中心に整理する。これは本稿の中核をなす。

出発点――人ではなくシステムを見てきた交通計画The Starting Point

マルテンスは、2017年の著作 “Transport Justice: Designing Fair Transportation Systems”(Routledge)において、交通計画の歴史への観察から議論を始めたとされる[5]。彼の観察によれば、過去およそ50年間、交通計画と政策の焦点は、交通システムの性能と、それをどう改善するかに置かれ、そのシステムを実際に使う──あるいは使えない──人々には、十分な注意が払われてこなかったとされる[5]。その結果、交通システムの改善の果実を享受する人々がいる一方で、状況が悪化した人々もいる、という帰結が生じたとされる[5]

推論
[推論]マルテンスが、交通計画は50年間システムの性能に注目し人々に注目してこなかったと観察したことは、本シリーズ第1回(流れ)から第4回(都市)までが描いた、システムの性能(流量・需要・到達・都市構造)を主眼とする研究史と、整合的である。すなわち、マルテンスの交通正義論は、本シリーズが追跡してきた研究史そのものへの批判として位置づけられる。本稿の中心仮説がいう対象の拡張は、システムから人へ、そして人の自由へと、評価の焦点を移す試みとして現れた可能性がある。ただし、これはマルテンスの観察であり、交通計画の全体がそうであったかは別途の検証を要する。[/推論]

正義としてのアクセシビリティJustice as Accessibility

マルテンスの議論の核心は、交通における正義を、アクセシビリティにおける正義として捉える点にある[6]。彼は2012年の論文「交通における正義アクセシビリティにおける正義である」(Transportation 39(6):1035–1053)において、マイケル・ウォルツァーの『正義の領分(Spheres of Justice)』を交通部門に応用したとされる[6]。ウォルツァーは、異なる社会的財は異なる原理に従って分配されるべきだと論じた。マルテンスは、この発想を用いて、アクセシビリティを、独自の分配原理に従うべき社会的財として捉えたとされる[6]。なお、マルテンスはアクセシビリティという概念そのものを発明したのではない。アクセシビリティは第3回で見たとおり以前から測定の概念として存在しており、マルテンスの寄与は、それを正義論の中心的な指標として再構成した点にある。

マルテンス(2017年)は、ロールズの正義論と潜在能力アプローチの対話に基づき、交通不利・社会的排除をめぐる分配的正義の関心は、第一義的に、人間の潜在能力としてのアクセシビリティに焦点を置くべきだと提案したとされる[5]。さらに彼は、政府が、ほぼすべての人に十分な(adequate)アクセシビリティを提供する基本的な義務を負う、と論じたとされる[5]。すなわち、一定の最低限の水準(sufficiency)のアクセシビリティを、権利として保障すべきだという主張である。

確認できる事実
マルテンスは、交通における正義アクセシビリティにおける正義として捉え(2012年、ウォルツァーの応用)、ロールズと潜在能力アプローチの対話に基づき、政府がほぼすべての人に十分なアクセシビリティを提供する義務を負うと論じた(2017年)とされる[5][6]

分配の原理――功利・優先・十分Principles of Distribution

マルテンスらは、交通の便益アクセシビリティをどう分配すべきかをめぐって、複数の原理を区別したとされる。マルテンス、ゴルブ、ロビンソン(2012年)は、交通の便益の分配への正義論的アプローチを論じ(Transportation Research Part A 46(4):684–695)、従来の費用便益分析が依拠する功利主義的な分配と、それとは異なる分配原理とを対比したとされる[5]。後の整理では、功利主義(効用の総和の最大化)、優先主義(より不利な人を優先する)、十分主義(全員に最低限の水準を保障する)といった分配原理が区別される。マルテンスの議論は、このうち十分主義(十分なアクセシビリティの保障)に親和的とされる[5]

推論
[推論]マルテンスが、功利主義的な分配(費用便益分析)に対し、十分主義的な分配(最低限のアクセシビリティの保障)を対置したとすれば、交通正義論は、第2回で見た交通経済学の評価枠組みへの、明示的な理論的対抗として現れたと解釈できる。すなわち、交通正義論は、交通研究に正義論という新しい主題を加えただけでなく、交通政策を評価する基準をめぐる、分配原理の選択の問題を前景化した。本稿の中心仮説がいう「自由や機会そのものの分析」は、こうした分配原理の明示的な検討を伴った可能性がある。[/推論]

分配的正義と複数の正義論Distributive Justice and Multiple Theories

本章では、交通における分配的正義を、複数の正義論を比較しながら整理した研究を取り上げる。これは、交通正義論が単一の理論ではなく、複数の理論の競合の場であることを示す。

ペレイラ・シュワネン・バニスターの整理Pereira, Schwanen, and Banister

交通における分配的正義を体系的にレビューした代表的研究として、ラファエル・ペレイラ、ティム・シュワネン、デイヴィッド・バニスターによる2017年の論文「交通における分配的正義と公平」(Transport Reviews 37(2):170–191)がある[7]。この論文は、過去数十年にわたり交通研究者・政策立案者が正義と公平の問いに注目を高めてきたと述べ、正義の諸理論が交通にどう適用されうるかを検討したとされる[7]。彼らは、功利主義、ロールズの平等主義、センの潜在能力アプローチなどを取り上げ、交通の文脈で何が公正な分配かを論じる枠組みを比較したとされる[7]

ペレイラらは、交通政策の分配的影響の分析が、基礎的な目的地への最低限のアクセシビリティ水準の設定、個人の権利の尊重、不利な集団の優先、機会の不平等の縮小、交通の外部不経済緩和を考慮すべきだと整理したとされる[7]。彼らは、潜在能力アプローチを、アクセシビリティを人間の潜在能力として捉える基礎として位置づけ、交通における正義の十全な理解には、従来のアプローチが提供してきた以上の、アクセシビリティのより完全な理解が必要だと論じたとされる[7]

確認できる事実
ペレイラ、シュワネン、バニスター(2017年)は、功利主義・ロールズ・潜在能力アプローチなど複数の正義論を交通の文脈で比較し、アクセシビリティを人間の潜在能力として捉える枠組みを整理したとされる[7]
推論
[推論]交通における分配的正義が、複数の正義論(功利主義・ロールズ・潜在能力)の比較として論じられるとすれば、交通正義研究は、単一の正義観に基づくのではなく、政治哲学における正義論の論争を、交通の文脈に持ち込んだものと解釈できる。すなわち、何が公正なアクセシビリティの分配かは、依拠する正義論によって異なる答えをもつ。本稿の中心仮説がいう「自由や機会の分析」は、確定した答えをもつものではなく、複数の規範理論が競合する論争の領域として展開した可能性がある。[/推論]

移動の正義――シェラーの議論Mobility Justice: Sheller

本章では、交通正義より広い射程をもつ「移動の正義(mobility justice)」の議論を、ミミ・シェラーを中心に整理する。これは、第5回で見たモビリティーズ研究と、本稿の正義論とを接続する。

スケールを横断する正義Justice across Scales

第5回で見たモビリティーズ研究の主唱者の一人であるミミ・シェラーは、2018年の著作 “Mobility Justice: The Politics of Movement in an Age of Extremes”(Verso)において、移動の正義(mobility justice)という概念を提示したとされる[8]。シェラーの議論は、交通正義(transport justice)が主として個人・都市スケールで扱ってきた問題を、より広い文脈に位置づけようとするものとされる[8]。すなわち、身体・街路・都市・国家・地球という複数のスケールにわたって、移動をめぐる権力と不平等を捉えようとする[8]。気候変動、移民・難民の移動、国境、グローバルな移動、都市内の交通格差などを、移動の正義という一つの枠組みのもとで論じる点に特徴がある[8]。この射程の広さゆえに、シェラーの議論は、交通政策やアクセシビリティを主たる対象とする交通研究というより、第5回で見たより広いモビリティ研究に属すると位置づけるのが適切である。

推論
[推論]シェラーの移動の正義が、交通正義より広いスケールを扱うとすれば、移動をめぐる正義の議論には、射程の異なる複数の系統が存在することになる。一つは、マルテンスらの交通正義のように、個人・都市スケールアクセシビリティの分配を論じる系統。もう一つは、シェラーの移動の正義のように、身体から地球までのスケールで移動の権力構造を論じる系統。両者は、移動と正義を結びつける点で共通するが、射程と方法を異にする。本稿の中心仮説がいう対象の拡張は、単一の方向ではなく、異なる射程をもつ複数の系統として展開した可能性がある。[/推論]

潜在能力という共通の参照点Capability as a Common Reference

これら複数の系統が、しばしば共通して参照するのが、センの潜在能力アプローチである。あるレビューによれば、センの潜在能力に関する議論は、交通・モビリティ研究の全領域にわたって参照されているとされる[8]。マルテンスの交通正義も、シェラーの移動の正義も、ペレイラらの分配的正義の整理も、潜在能力アプローチを参照点の一つとする。すなわち、潜在能力アプローチは、射程の異なる複数の正義論を緩やかに結びつける共通の理論的資源として機能したとされる[8]

推論
[推論]潜在能力アプローチが、交通正義・移動の正義分配的正義という複数の系統に共通して参照されるとすれば、この枠組みは、交通研究における「自由」への関心をねる結節点として機能した可能性がある。すなわち、本稿の中心仮説がいう「自由や機会そのものの分析」は、潜在能力アプローチという共通の語彙のもとで、複数の研究系統が緩やかに収斂する形で展開した可能性がある。ただし、各系統が潜在能力アプローチをどの程度厳密に用いたかは、前述のとおり研究により異なり、収斂は緩やかなものにとどまる。[/推論]

移動への権利という系統The “Right to Mobility” Strand

本章では、潜在能力アプローチとは別の、しかし関連する系統として、移動・交通への「権利」を論じる議論を整理する。これは、交通における自由・正義の議論が、複数の理論的源泉をもつことを示す。

都市への権利と移動The Right to the City and Mobility

交通正義の議論がしばしば参照する理論的源泉の一つが、アンリ・ルフェーヴルに由来する「都市への権利(the right to the city)」である[7]。これは、都市の生活・空間に参加し、それを専有する権利を主張する議論であり、都市研究・批判地理学において展開した。交通の文脈では、都市の活動・機会に到達し参加する権利として、移動・アクセシビリティへの権利を基礎づける議論に接続される[7]。すなわち、移動は、効用や潜在能力としてだけでなく、都市生活に参加する権利の一部としても論じられた。

推論
[推論]交通正義の議論が、潜在能力アプローチ(セン・ヌスバウム)だけでなく、都市への権利(ルフェーヴル)をも源泉とするとすれば、交通における自由・正義の議論は、単一の理論ではなく、厚生経済学・政治哲学・批判地理学という複数の伝統が交差する場であると解釈できる。本稿の中心仮説がいう「自由や機会の分析」は、これら複数の理論的源泉から、それぞれ異なる仕方で「自由」「権利」「正義」を交通に持ち込む、多元的な動きであった可能性がある。[/推論]

アクセシビリティの公平という系統The Accessibility Equity Strand

もう一つの関連する系統が、アクセシビリティの公平(accessibility equity)を論じる研究である。ファン・ウェーとグールス(2011年)は、アクセシビリティの評価において、公平・社会的排除をどう扱うかを論じたとされる[7]。これは、第3回で見たアクセシビリティ研究(グールスとファン・ウェー2004年)を、公平・正義の観点から発展させたものと位置づけられる。すなわち、アクセシビリティをいかに測るかという問い(第3回)に、アクセシビリティをいかに公平に分配すべきかという問い(第7回)が加わった。

推論
[推論]アクセシビリティの公平を論じる系統が、第3回のアクセシビリティ研究の発展として現れたとすれば、交通における正義の議論は、外部の正義論(セン・ロールズ・ルフェーヴル)の借用だけでなく、交通研究の内部(アクセシビリティ研究)からの発展という側面ももつと解釈できる。すなわち、本稿の中心仮説がいう対象の拡張は、外部理論の流入と内部概念の発展という、二つの経路で生じた可能性がある。アクセシビリティという概念が、両経路の接点となった可能性がある。[/推論]

複数の系統の緩やかな収斂A Loose Convergence of Strands

以上のように、交通における自由・正義の議論には、潜在能力アプローチ、交通正義(マルテンス)、移動の正義(シェラー)、都市への権利アクセシビリティの公平など、複数の系統が存在する。これらは、理論的源泉も射程も方法も異なるが、移動・アクセシビリティを、測定の対象としてだけでなく、人々の自由・機会・正義に関わるものとして捉える点で、関心を共有する。ペレイラら(2017年)のレビューは、こうした多様な系統を、分配的正義という枠組みのもとで整理しようとする試みの一つと位置づけられる[7]

確認できる事実
交通における自由・正義の議論には、潜在能力アプローチ、交通正義、移動の正義都市への権利アクセシビリティの公平など、理論的源泉の異なる複数の系統が存在し、それらは移動・アクセシビリティを自由・機会・正義に関わるものとして捉える点で関心を共有する[7][8]

自由をどう測るかHow Freedom Is Studied

本章では、潜在能力正義という評価基準が、交通研究のなかでどのように操作化・分析されてきたかを整理する。これは、規範的な概念が実証的な研究にどう接続されたかを示す。

アクセシビリティ指標の正義論的な再構成Reconstructing Accessibility Indicators

正義論を交通研究に接続する一つの方法は、第3回で見たアクセシビリティ指標を、依拠する正義論に応じて再構成することである。ある研究は、功利主義、ウォルツァーの共同体主義、ロールズの平等主義、センの潜在能力アプローチという四つの正義論の前提を、重力モデル型のアクセシビリティ指標に反映させ、交通投資の公平への影響を評価しようとしたとされる[7]。すなわち、同じアクセシビリティのデータでも、依拠する正義論によって、誰の到達可能性をどう重みづけるかが変わり、評価が変わる。これは、規範的な原理を、定量的な指標の設計に組み込む試みである。

最低限水準の設定Setting Minimum Thresholds

十分主義的なアプローチ(マルテンスら)を操作化する方法として、アクセシビリティの最低限水準(minimum standard / threshold)を設定し、それを下回る集団・地域を特定する方法がある[5][7]。これは、全員のアクセシビリティを最大化するのではなく、一定の水準を下回る人をなくすことを目標とする発想に対応する。最低限水準をどこに設定するかは規範的な判断を要するが、いったん設定されれば、それを下回る人々を定量的に特定できる。マルテンスは、人を中心に置くアクセシビリティのアプローチを、国際交通フォーラムの討議資料(2020年)でも論じたとされる[5]

確認できる事実
正義論の操作化の方法として、依拠する正義論に応じてアクセシビリティ指標を再構成する方法[7]と、アクセシビリティの最低限水準を設定して下回る集団を特定する方法[5]がある。

知覚されたアクセシビリティと参加型の方法Perceived Accessibility and Participatory Methods

潜在能力アプローチが、人が価値をおく生き方を重視することから、当事者の視点・経験を捉える方法も用いられる。定量的・客観的に測られるアクセシビリティ(conceived accessibility)だけでなく、当事者が知覚するアクセシビリティ(perceived accessibility)に着目する研究や、利用者の参加を通じて何が価値ある到達かを明らかにしようとする研究がある[4]。これは、第5回・第6回で見た質的方法とも関心を共有し、潜在能力アプローチが重視する「人が価値をおくもの」を、外から定義するのではなく当事者から捉えようとする。

推論
[推論]正義潜在能力という規範的な概念が、指標の再構成・最低限水準の設定・当事者の知覚の把握といった複数の方法で操作化されたとすれば、交通研究は、規範的な評価基準を、抽象的な議論にとどめず、実証的な分析に接続しようとしたと解釈できる。すなわち、本稿の中心仮説がいう「自由や機会そのものの分析」は、哲学的な概念の導入にとどまらず、それを測定・評価の手続きへ翻訳する作業を伴った。ただし、その操作化が統一的な方法に至っているかについては、前述のとおり、なお散在的であるとされる。[/推論]

批判と論争Critiques and Debates

本章では、交通研究への潜在能力正義論の導入に対して、文献上どのような批判・論争が存在するかを整理する。本稿はこれらの立場のいずれも支持せず、論争の所在を記述する。

概念の操作化の難しさThe Difficulty of Operationalization

第一の論点は、潜在能力アプローチの操作化の難しさである。前述のとおり、潜在能力アプローチの鍵概念(機能潜在能力・転換要因)は、研究によって異なる、部分的な仕方で概念化・操作化されているとされる[4]。とりわけ、潜在能力(達成しうる自由の幅)は、達成された機能と違って直接には観測しにくく、これをどう測るかは難問とされる。すなわち、規範的に魅力的な枠組みであっても、それを一貫した実証的方法へ翻訳することには困難が伴う[4]

潜在能力のリストをめぐる問題The Problem of Listing Capabilities

第二の論点は、どの潜在能力を重視すべきかをめぐる問題である。センが潜在能力のリストの固定に慎重であったのに対し、ヌスバウムは具体的なリストを示した(前述)。交通研究においても、移動・アクセシビリティをどう位置づけるか、何を「価値ある到達」とみなすかについて、合意は確立していない。これを誰が、どのように決めるのかは、規範的な問いであり、研究者のあいだで見解が分かれうる。

記述と規範の関係The Relation between Description and Norm

第三の論点は、正義論の導入が、交通研究を記述的な科学から規範的な議論へと変えることへの評価である。一部の研究者は、交通研究が明示的に規範的な基準を扱うべきだと考える。他方で、規範的な判断は研究者の役割を超えるとする見方もありうる。この点について、交通研究の内部で統一的な立場があるとは言えず、見解が分かれている。本稿はこの論争のいずれの立場も支持せず、論争が存在することを記すにとどめる。

見解が分かれている点
潜在能力アプローチ・正義論の交通研究への導入をめぐっては、(1)概念の操作化の難しさ[4]、(2)どの潜在能力を重視すべきかの判断、(3)交通研究が規範的基準を扱うことの是非、について見解が分かれている。本稿はいずれの立場も支持しない。

不平等の記述から自由の評価へFrom Describing Inequality to Evaluating Freedom

本章では、第6回(不平等)と第7回(自由)の関係を、より立ち入って整理する。これは、本稿の中心仮説の核心──測定から自由・機会の分析への移行──が、第6回とどう接続するかを明らかにする。

記述に含まれる暗黙の評価The Implicit Evaluation in Description

第6回で見たとおり、不平等研究は、移動機会の差異を記述・測定し、それを「交通不利」「社会的排除」と呼んだ。しかし、ある状態を「不利」「排除」と呼ぶことには、すでに、それが望ましくない状態だという評価が暗黙に含まれている。第7回の正義論は、この暗黙の評価を明示化し、「なぜそれが問題なのか」「何を基準に不公正と判断するのか」を、理論的に基礎づけようとした[5][7]。すなわち、第6回が「差異がある」と記述したのに対し、第7回は「その差異は正義に照らして問題である」と評価する基準を導入した。

推論
[推論]不平等の記述に暗黙の評価が含まれ、正義論がそれを明示化したとすれば、第6回から第7回への移行は、新しい対象の発見ではなく、第6回の記述にすでに含まれていた評価的契機の、理論的な基礎づけであったと解釈できる。すなわち、本稿の中心仮説がいう「自由や機会そのものの分析」は、第6回の不平等研究が暗黙に前提していた「移動機会は重要だ」という価値を、潜在能力正義という明示的な理論によって基礎づける作業であった可能性がある。記述と評価は、断絶ではなく連続している可能性がある。[/推論]

潜在能力という橋Capability as a Bridge

第6回の末尾で触れたモティリティ(移動しうる能力)の概念は、第6回と第7回をつなぐ位置にある。モティリティは、実現した移動ではなく移動しうる能力に着目する点で、すでに潜在能力アプローチと発想を共有していた。第7回の潜在能力としてのアクセシビリティは、この、能力・潜在性への着目を、明示的な規範理論(セン・ヌスバウム)に接続したものと位置づけられる[4]。すなわち、「移動しうる能力」(第6回)から「価値ある生を実現する自由としての潜在能力」(第7回)への展開である。

推論
[推論]モティリティ(第6回)と潜在能力としてのアクセシビリティ(第7回)が、ともに実現した移動ではなく潜在的な能力・自由に着目するとすれば、両者は、移動を結果ではなく可能性として捉える点で、一貫した方向性をもつと解釈できる。本稿の中心仮説がいう「人々が望む生活を実現する自由」への着目は、第6回のモティリティにすでに萌芽し、第7回で規範理論として展開した可能性がある。すなわち、自由への関心は、第7回で突然現れたのではなく、第6回から準備されていた可能性がある。[/推論]

問いの最終的な形The Final Form of the Question

本シリーズが追跡してきた問いは、第7回において、次の形に達したと整理できる。すなわち、交通研究の一部は、「人はどれだけ移動するか」(第1・2回)、「どこへ到達できるか」(第3・4回)、「移動は社会で何を意味するか」(第5回)、「誰が移動できないか」(第6回)を経て、「人はどのような生き方を実現できるか、そしてその自由は公正に分配されているか」(第7回)を問うようになった[5][7]。本稿が検証したのは、この最後の問いを扱う研究が実際に形成されたか否かであり、それは前章までに見たとおり、一部の・形成途上の動きとして支持される。なお、この「経て」という整理は、後の問いが前の問いに時間的に取って代わったという意味ではない。格差研究・社会的排除研究・アクセシビリティ研究・正義研究は、実際には同時並行で進んでおり、第7回の自由・正義の問いは、先行する問いを置き換えたのではなく、それらを包摂し規範的に基礎づける関係にある。

推論
[推論]交通研究の問いが「人はどれだけ移動するか」から「人はどのような生き方を実現できるか」へと展開したとすれば、移動は、それ自体として完結する対象ではなく、人の生の自由を構成する一契機として捉え直されたと解釈できる。これは、第2回で見た派生需要(移動は活動への手段)の考え方を、さらに一歩進めたものと位置づけられる。すなわち、移動は活動への手段であり(第2回)、その活動は人が価値をおく生を構成し(第7回)、移動の自由はその生の自由の一部である、という連関である。ただし、移動を独立した価値とみなすか手段とみなすかは、前述のとおり見解が分かれており、この連関も一つの解釈にとどまる。[/推論]

七つの視点の比較Comparing Seven Perspectives

本章では、本シリーズが扱ってきた七つの捉え方──流れ・需要・到達・都市構造・社会・不平等・自由──を、文献に基づいて比較する。本章は価値判断を行わず、各捉え方が何を説明・評価の対象としたかを整理するにとどめる。

流れ・需要・到達・都市・社会・不平等・自由の対比(本シリーズ第1〜7回の整理)
観点 問い 評価・分析の基準 主たる分野
流れ(第1回) どれだけ流れるか 流量・速度・容量 交通工学
需要(第2回) なぜ移動するか 効用・費用 交通経済学
到達(第3回) どこへ到達できるか アクセシビリティ 交通地理学
都市(第4回) 都市がどう移動を生むか 土地利用との関係 都市計画
社会(第5回) 移動が社会を構成するか 移動の社会的意味 社会学
不平等(第6回) 誰が移動できないか 機会の分配の差 社会政策
自由(第7回) どんな生き方を実現できるか 潜在能力正義 政治哲学・正義

この対比において、第7回が際立つのは、問いと基準の性格である。第1回から第6回までの問いは、主として「何が起きているか」を記述・測定するものであった(第6回の不平等の記述を含む)。これに対し、第7回の問いは、「何が公正か」「どの状態が十分か」という、評価の基準そのものを主題とする。すなわち、第1回から第6回が記述的・実証的な性格を主とするのに対し、第7回は明示的に規範的な基準を扱う。

推論
[推論]第1回から第6回が記述・測定を主とし、第7回が規範的基準を主題とするとすれば、本シリーズが追跡してきた研究対象の拡張は、第7回において、性格の異なる段階に達したと解釈できる。すなわち、「移動とは何を説明する対象か」という問いの拡張(第1〜6回)から、「移動・アクセシビリティを何の基準で評価すべきか」という問いの導入(第7回)へと、問いの性格そのものが移行した。本稿の中心仮説がいう「自由や機会そのものの分析」は、記述から評価への、この性格の移行として現れた可能性がある。ただし、これは七つを理念型として整理したものであり、各段階には評価と記述の両契機が混在している。[/推論]

対比の限界――併存と相互参照The Limits of the Contrast

七つの捉え方の関係についても、留保を要する。第一に、これらは時系列で順に交代したのではなく、異なる研究プログラムとして並行して成立し、現在も併存している。交通工学・交通経済学は、正義論の登場後も主流であり続けている。第二に、第7回の正義論は、既存の概念を捨てたのではなく、第3回のアクセシビリティを評価基準として引き継ぎ、第6回の不平等研究を規範的に基礎づけるものである。第三に、正義論の内部にも、功利主義・ロールズ・潜在能力・移動の正義など、複数の立場が併存し、見解が分かれている[7]

推論
[推論]第7回の正義論が、第3回のアクセシビリティと第6回の不平等研究を引き継ぐとすれば、本シリーズが追跡してきた七つの捉え方は、相互に断絶した別物ではなく、後の段階が前の段階の概念を引き継ぎ・問い直す、累積的・相互参照的な関係にあると解釈できる。とりわけアクセシビリティ(第3回)は、測定の対象(第3回)、不平等の単位(第6回)、正義の基準(第7回)へと、繰り返し位置づけを変えながら、シリーズ全体を貫く中心概念となっている。本稿の中心仮説がいう対象の拡張は、新概念の発明よりも、既存概念(とりわけアクセシビリティ)の意味の累積的な拡張として進んだ可能性がある。[/推論]

検証結果Findings

本章では、中心仮説について、支持される部分・支持されない部分・不明な部分を分けて整理する。本章では提言や価値判断を行わず、本文で示したエビデンスのみを要約する。

支持される部分Supported

次の点は、文献上支持される。第一に、21世紀に入り(おおむね2010年代以降)、交通研究において、潜在能力アプローチ・交通正義・移動の正義といった、自由・機会・正義を扱う研究が形成されたこと[4][5][7]。第二に、これらの研究が、アクセシビリティを人間の潜在能力(価値ある生き方を実現する自由)として捉え直したこと[4][7]。第三に、マルテンスらが、交通政策を評価する基準として、効用の合計ではなく自由・アクセシビリティの公正な分配を提案したこと[5][6]。第四に、これらの規範的概念を操作化する手法が試みられたこと[7]。これらは、交通研究の一部において、移動量・アクセシビリティの測定から、人々が望む生活を実現する自由・機会の分析へと対象を拡張する、有力な研究潮流が形成されたことを裏づける。ここで確認されるのは、交通研究全体が自由の研究へ移行したことではなく、その一部で形成された重要な潮流の存在である。

支持されない、または限定が必要な部分Unsupported or Qualified

次の点は、限定を要する。第一に、これは交通研究「全体」の転換ではなく、その「一部」の動きである。交通工学・交通経済学の主流(交通量予測、費用便益分析)は、依然として広く用いられている。第二に、この研究領域は、潜在能力アプローチの操作化が統一されておらず、なお散在的で形成途上である[4]。第三に、正義論の内部に複数の立場が併存し、何が公正かについて合意はない[7]。すなわち、対象の拡張は生じたが、それは一部の・形成途上の・論争を含む動きである。

不明な部分Unknown

次の点は、本稿の調査範囲では十分に確認できなかった。第一に、これらの正義論・潜在能力アプローチが、実際の交通計画の意思決定(費用便益分析の標準的手続きなど)をどの程度変えたか。第二に、欧米以外の地域における展開の程度。第三に、潜在能力としてのアクセシビリティの測定が、統一的な方法として確立しうるか。これらについては「不明」とし、推測で補わない。

中心仮説への判定Assessing the Central Hypothesis

本章では、以上の整理に基づき、本稿の中心仮説「21世紀に入り、一部の交通研究は、移動量やアクセシビリティの測定だけでなく、人々が望む生活を実現する自由や機会そのものを分析対象とするようになった」を、支持される部分・支持されない部分・不明な部分に分けて評価する。本章は本文で示したエビデンスのみを要約し、新しい主張を加えない。

この仮説は、支持される。文献上、21世紀に入り、潜在能力アプローチ・交通正義・移動の正義を扱う研究が形成され、アクセシビリティを人間の潜在能力(価値ある生き方を実現する自由)として捉え直し、交通政策を評価する基準として自由・機会の公正な分配を論じたことは、明確に確認できる[4][5][7]。とりわけ、マルテンス(2017年)が、交通計画が長くシステムの性能に注目し人々に注目してこなかったと観察し、アクセシビリティ潜在能力として正義の対象に据えた[5]こと、ペレイラら(2017年)が複数の正義論を比較し潜在能力アプローチを位置づけた[7]ことは、研究対象が移動・アクセシビリティの測定から、自由・機会の分析へと拡張したことを直接に裏づける。

ただし、仮説の文言「一部の交通研究は」という限定は、重要である。この拡張は、交通研究全体の転換ではない。交通工学・交通経済学の主流の手法は、依然として広く用いられている。また、この研究領域は、潜在能力アプローチの操作化が統一されておらず[4]正義論の内部に複数の立場が併存し[7]、なお形成途上で論争を含む。さらに、本稿が冒頭で述べたとおり、本稿が検証したのは、研究者がこうした評価基準を導入したという学説史的な事実であり、それらの正義論のいずれが正しいかは、本稿の検証範囲外である。

判定の要約
中心仮説は支持される。(1)21世紀に入り、自由・機会・正義を評価基準として導入する研究(潜在能力アプローチ、交通正義、移動の正義)が形成され、アクセシビリティを人間の潜在能力として捉え直したことは、文献上明確に確認できる[4][5][7]。ただし、(2)これは交通研究「全体」ではなく「一部」の動きであり、(3)概念の操作化は未確立で、正義論の内部に複数の立場が併存する形成途上の領域である。なお、本稿は学説史としてこれを記述し、いずれの正義論も支持・批判しない。この判定は確認できる文献に基づく研究史の解釈であって、証明された歴史法則ではない。

本稿の限界Limitations

本稿は、主に英語圏の交通正義潜在能力アプローチ研究の文献に依拠した整理であり、研究史の全体を網羅したものではない。とくに、実際の交通計画の意思決定への影響、欧米以外の地域における展開、潜在能力の測定方法の確立可能性については、十分に確認できなかった。本稿の判定は、確認できたエビデンスの範囲での暫定的なものであり、より網羅的な調査によって修正されうる。

推論
[推論]本シリーズ第1回(流れ)から第7回(自由)を通じて見ると、交通研究の関心は、交通システムの性能(流量)から、移動の発生(需要)、機会への到達(アクセシビリティ)、都市構造との関係、移動の社会的構成、機会の不平等を経て、人々が望む生き方を実現する自由(潜在能力正義)へと、外側へ広がってきた可能性がある。この系譜は、工学・経済学・地理学・都市計画・社会学・社会政策・政治哲学へと、交通研究が接する隣接分野が拡大してきた過程としても読める。とりわけ、アクセシビリティ(第3回)が、測定の対象から、不平等の単位(第6回)、そして正義の基準(第7回)へと、繰り返し意味を変えながらシリーズを貫いたことは、交通研究の対象の拡張が、新概念の連続的な発明ではなく、中心概念の意味の累積的な深化として進んだ可能性を示す。すなわち、「人はどれだけ移動できるか」という問いは、「人はどのような人生を実現できるか」という問いを、その内に含むようになった可能性がある。ただし、これは本シリーズ全体を通じた解釈であり、事実として確定するにはさらなる検証を要する。また、この拡張はいずれも交通研究の一部における動きであり、各分野の主流の手法がそれによって置き換えられたことを意味しない。[/推論]

参考文献References

  1. [1] Sen, A. Development as Freedom. Oxford University Press, Oxford, 1999.(潜在能力アプローチ、機能潜在能力、自由としての発展)。関連して Sen, A. Inequality Reexamined, Harvard University Press, 1992; Sen, A. The Idea of Justice, Harvard University Press, 2009 も参照。
  2. [2] Robeyns, I. Wellbeing, Freedom and Social Justice: The Capability Approach Re-examined. Open Book Publishers, Cambridge, 2017.(潜在能力アプローチの体系的整理)。定義に関して Alkire, S. Valuing Freedoms: Sen’s Capability Approach and Poverty Reduction, Oxford University Press, 2002 も参照。
  3. [3] Nussbaum, M. “Capabilities as Fundamental Entitlements: Sen and Social Justice.” Feminist Economics, Vol. 9, No. 2–3, 2003, pp. 33–59. DOI: 10.1080/1354570022000077926.(中心的潜在能力のリスト、権原としての潜在能力)。関連して Nussbaum, M. Creating Capabilities: The Human Development Approach, Harvard University Press, 2011 も参照。
  4. [4] Vecchio, G. & Martens, K. “Accessibility and the Capabilities Approach: A Review of the Literature and Proposal for Conceptual Advancements.” Transport Reviews, Vol. 41, No. 6, 2021, pp. 833–854. DOI: 10.1080/01441647.2021.1931591.(潜在能力アプローチと移動・アクセシビリティを結びつける文献のレビュー、概念化・操作化の多様性と散在性)
  5. [5] Martens, K. Transport Justice: Designing Fair Transportation Systems. Routledge, New York, 2017.(交通計画史への観察、潜在能力としてのアクセシビリティ、十分なアクセシビリティを提供する政府の義務)。関連して Martens, K., Golub, A. & Robinson, G. “A justice-theoretic approach to the distribution of transportation benefits,” Transportation Research Part A, Vol. 46, No. 4, 2012, pp. 684–695; Martens, K. A People-Centred Approach to Accessibility, International Transport Forum Discussion Paper, OECD, 2020 も参照。
  6. [6] Martens, K. “Justice in Transport as Justice in Accessibility: Applying Walzer’s ‘Spheres of Justice’ to the Transport Sector.” Transportation, Vol. 39, No. 6, 2012, pp. 1035–1053. DOI: 10.1007/s11116-012-9388-7.(交通における正義アクセシビリティにおける正義として捉える、ウォルツァーの応用)
  7. [7] Pereira, R. H. M., Schwanen, T. & Banister, D. “Distributive Justice and Equity in Transportation.” Transport Reviews, Vol. 37, No. 2, 2017, pp. 170–191. DOI: 10.1080/01441647.2016.1257660.(複数の正義論の比較、アクセシビリティを人間の潜在能力として捉える枠組み、最低限水準・優先・外部不経済の考慮)。関連して van Wee, B. & Geurs, K. “Discussing Equity and Social Exclusion in Accessibility Evaluations,” EJTIR, 2011 も参照。
  8. [8] Sheller, M. Mobility Justice: The Politics of Movement in an Age of Extremes. Verso, London, 2018.(移動の正義、身体から地球までのスケールを横断する移動の権力と不平等)。交通・モビリティ研究全般における潜在能力アプローチの参照について Sheller, M. “Theorising mobility justice,” Tempo Social, 2018 も参照。

本レポートは交通研究史シリーズ第7回(最終回)として、21世紀に入り一部の交通研究が移動量・アクセシビリティの測定だけでなく人々が望む生活を実現する自由や機会そのものを分析対象とするようになったと言えるかを、研究史・学説史・概念史の整理として検証した。潜在能力アプローチの理論的起源(セン、ヌスバウム)、交通研究への導入(アクセシビリティ潜在能力として捉える)、マルテンスの交通正義論(正義としてのアクセシビリティ、十分なアクセシビリティの保障)、分配的正義の複数理論(ペレイラ、シュワネン、バニスター)、シェラーの移動の正義、操作化の手法、批判と論争を、確認できる範囲で記述し、解釈・推論は推論として明示した。概念の操作化の難しさ、潜在能力のリストをめぐる問題、記述と規範の関係など、見解が分かれる点も記した。本稿は学説史としてこれらの正義論を記述し、いずれも支持・批判せず、何が正義かを独自に論じない。本レポートは提言・政策提案・将来予測・独自理論・規範的主張を含まない。中心仮説は「支持される」と判定した。すなわち、自由・機会・正義を評価基準として導入する研究の形成は支持されるが、これは交通研究全体ではなく一部の動きであり、概念の操作化は未確立で正義論の内部に複数の立場が併存する形成途上の領域である、という限定を伴う。これをもって、流れ・需要・到達・都市・社会・不平等・自由という七回の研究史シリーズを終える。