【蜜月の終焉】アイゼンハワーの夢が、街を喰らう怪物に変わるまで
史上最強の自己増殖システム道路信託基金の誕生
私たちがアメリカという国を思い浮かべるとき、地平線まで続く広大なハイウェイと、そこを颯爽と駆ける自動車の姿を想像するはずです。アメリカは文字通り、自動車によって作られ、自動車によって支えられてきた国です。しかし、その自動車帝国の足元で、かつて国家の根幹を揺るがすほどの巨大なシステム不全が起きていたことをご存知でしょうか。今回は、アメリカが道路以外の選択肢を自ら断ち切り、自縄自縛に陥ることになった元凶、道路信託基金(Highway Trust Fund)の正体に迫ります。
音声解説(19分)
AI Notebook LM により生成されたラジオ番組
1956年、アイゼンハワーが署名した運命の法律
第二次世界大戦後の1956年、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領は連邦補助高速道路法(Federal-Aid Highway Act)に署名しました。これは全米を網の目のように結ぶ約6万キロメートル以上の高速道路網を建設する、人類史上最大級の土木プロジェクトの幕開けでした。アイゼンハワーがこの計画を推進したのは、単なる経済対策ではありませんでした。冷戦下において、核攻撃を受けた際の迅速な避難路を確保し、軍隊を速やかに移動させるための安全保障上の要請が強く働いていました。この壮大な計画を支えるために考案された仕組みが、道路信託基金(Highway Trust Fund: HTF)です。
誰も逆らえない自己増殖システムの正体
HTFは、ガソリン税やタイヤ税を主財源とする、使途を限定した専用財源(目的税)です。ここには、経済学的に見ても驚くほど強力で、かつ危険な自己増殖メカニズムが組み込まれていました。そのサイクルは以下の通りです。
- 道路を作る: 連邦政府が建設費の90%を負担し、全米にハイウェイを敷く。
- 車が増える: 道路ができると、人々は郊外に住み、車で移動するようになる。
- ガソリン消費が増える: 走行距離が伸び、ガソリン税収が爆発的に増える。
- さらに道路を作る: 増えた税収は法律で道路建設にしか使えないため、さらに新しい道を作る。
この循環により、アメリカの交通予算は自動的に道路へと吸い込まれていきました。鉄道やバスといった公共交通には一切の資金が回らない仕組みが、法的・構造的に固定されたのです。この強固な体制を支えたのが、ビッグスリー(GM、フォード、クライスラー)、石油産業、建設業界、そして道路建設を利権とする政治家たちによる同盟、通称ロード・ギャング(Road Gang)でした。彼らのロビー活動により、HTFの聖域は長らく守られ続けました。
鉄の三角形が生んだ、都市の窒息
この仕組みは、一見すると受益者負担(サービスを利用する人が費用を払う原則)に基づいた合理的なものに見えます。しかし、そこには重大な欠陥がありました。
一つは、外部不経済(市場を通さず他者に与える悪影響)の無視です。道路が作られるたびに、都市の中心部ではコミュニティが分断され、排ガスや騒音が発生しましたが、HTFの支出項目に環境復元やコミュニティ支援は含まれていませんでした。
もう一つは、経路依存性(一度決まった仕組みから抜け出せなくなる現象)です。交通インフラの全てが道路に偏った結果、鉄道という選択肢は物理的に維持できなくなり、市民は車に乗るしか選択肢がないという不自由な状況へ追い込まれていきました。
アイゼンハワーが夢見た自由な移動のためのインフラは、皮肉にも都市の多様性を破壊し、自動車という一つの手段に依存せざるを得ない怪物へと変貌していったのです。
日本の道路特定財源との共通点と相違点
日本の読者の皆さんの中には、かつて日本にも存在した道路特定財源を思い出す方も多いでしょう。日本の制度も、アメリカのHTFをモデルに構築されました。2009年に一般財源化(特定の用途に限らず、自由に使える予算に変えること)されるまで、日本のガソリン税もまた、道路建設に優先的に配分されてきました。この制度が日本の近代化と物流の効率化に多大な貢献をしたことは事実です。
ただ、アメリカが1970年代という早い段階で道路専用の壁を崩したのに対し、日本がその仕組みを21世紀まで維持したことは、地方の公共交通を弱体化させる一因になったという弱点も、客観的に見て否定できません。
崩壊の序曲
走れば走るほど、街がコンクリートで埋め尽くされていく。1960年代後半、アメリカの都市部では、この夢のシステムに対する不信感が爆発寸前まで高まっていました。道路を作れば作るほど渋滞はひどくなり、排ガスで空は汚れ、子供たちの遊び場は駐車場へと姿を変えていきました。最強のロビー団体に守られた聖域に、誰が、どのようにして風穴を開けたのか。
次項では、道路建設が都市を切り刻む肉切り包丁と化した惨状と、経済学的な罠である誘発需要(道路を作ると交通量が増えて渋滞が戻る現象)の恐怖について詳しくお話しします。
主要参照文献・資料
- Weisbrod, B. A. (1964). Collective-Consumption Services of Individual-Consumption Goods. Quarterly Journal of Economics.
- Mohl, R. A. (2004). Stop the Road: Freeway Revolts in American Cities. Journal of Urban History.
- Rose, M. H., & Seely, B. E. (1990). Getting the Nation out of the Mud: Forming the Highway Trust Fund and Its Early Years.
- 国土交通省(2009)道路特定財源制度の廃止と一般財源化について。
【都市の悲鳴】肉切り包丁がコミュニティを切り刻む
誘発需要の罠と、廃墟と化したデトロイト・セントルイス
前項では、アメリカを車以外に選択肢のない国へと作り替えた、自己増殖システム道路信託基金(HTF)の誕生についてお話ししました。一見、無限の成長を約束するかのように見えたこのシステムですが、1960年代に入ると、全米の都市で深刻な副作用を引き起こし始めます。道路を作れば作るほど渋滞が悪化し、街が豊かになるどころか、内側から崩壊していくという奇妙な現象が起きたのです。
今回は、経済学が証明した道路建設の不都合な真実と、都市を切り刻んだ肉切り包丁の正体に迫ります。
誘発需要という終わりのない罠
当時のエンジニアや政治家たちは、渋滞が起きれば車線が足りないからだと考え、さらに広い道路を作りました。しかし、ここに経済学的な落とし穴がありました。それが誘発需要(Induced Demand)です。これは、道路を広げて移動のコスト(時間や手間)が下がると、それまで移動を控えていた人や、遠くに住んでいた人が新たに車を使い始め、結局すぐに元の渋滞レベルに戻ってしまう現象を指します。ダウンズ・トムソンのパラドックス(Downs-Thomson Paradox)としても知られるこの理論は、道路建設によって渋滞を解消しようとするのは、火を消そうとしてガソリンを注ぐようなものだということを示唆しています。アメリカはこの罠にはまり、無限に続く車線の拡張と、それに伴う膨大な維持費の増大という負のスパイラルに陥っていきました。
肉切り包丁(Meat Ax)と呼ばれた高速道路
この時期、道路建設の矛先は都市の中心部へと向けられました。州間高速道路網が都市を貫通する際、その設計思想は極めて効率優先の冷徹なものでした。後の運輸長官ジョン・ボルピは、都心を切り裂く高速道路を指して肉切り包丁(Meat Ax)という表現を使いました。それは単なる比喩ではなく、現実の破壊を言い当てていました。
- セントルイスの事例:
ミズーリ州セントルイスでは、都心を貫くハイウェイ建設のために、数千世帯が暮らす歴史的なコミュニティが強制的に撤去されました。道路は街を繋ぐのではなく、物理的な壁となって近隣住民の交流を断絶させました。 - デトロイトの悲劇:
自動車の都デトロイトでは、高速道路が郊外への流出(ホワイト・フライト)を加速させました。中産階級は車で郊外の住宅地へ移り住み、中心部には道路によって孤立した貧困層と、メンテナンス不能になった巨大な廃墟だけが取り残されました。
中心街は人が留まる場所から、単に車が通過する場所へと変貌し、歩行者が消えた街角からは経済の活力も失われていきました。
社会的費用の無視と負の外部性
経済学から指摘しなければならないのは、この時期の道路建設が、本来計算に入れるべき社会的費用(Social Cost)を完全に無視して進められた点です。道路建設によって奪われたコミュニティの繋がりや歴史的景観、あるいは騒音や大気汚染による健康被害。これらは市場で取引されないため、建設の費用便益分析からは除外されました。
しかし、これらの負の外部性(第三者が被る不利益)は、確実に都市の資産価値を蝕んでいきました。道路は地価を上げると思われがちですが、都心を貫通する巨大な高架橋の周辺は、排ガスと騒音によって逆にスラム化し、自治体の税収を長期的に奪う結果となったのです。
日本のバイパス建設と中心街の空洞化
このアメリカの惨状は、日本の地方都市が経験したバイパス沿いの発展と中心街のシャッター通り化とも重なる部分があります。日本の政策においても、郊外に立派な道路を通すことで物流は改善されましたが、同時に中心部からの人口流出と、公共交通(地方鉄道やバス)の利用減を招いたことは否めません。
もちろん、日本の場合は木の街という特性から、再開発とセットで道路を整備することで防災機能を高めるという重要な目的もありました。しかし、アメリカが50年以上前に直面した車に最適化しすぎた街の死という教訓は、現在の日本のコンパクトシティ議論においても極めて重い示唆を与えています。
限界点に達した鉄の三角形
1960年代末、全米の都市住民の怒りはついに限界点に達します。
「私たちは、自分たちの街をアスファルトで塗りつぶすために税金を払っているのではない。」
ビッグスリーや道路利権を代表するロード・ギャングが構築した鉄の三角形に、初めて市民がNOを突きつけ始めました。そしてその怒りは、ある一人の道路の王と呼ばれた男の心を動かすことになります。次項では、ボストンで起きた劇的な反対運動と、マスキー法(大気浄化法)による環境規制の強化、そしてジョン・ボルピ運輸長官が歴史的転向を遂げるまでのドラマをお話しします。
主要参照文献・資料
- Downs, A. (1962). The Law of Peak-Hour Expressway Congestion. Traffic Quarterly.
- Mohl, R. A. (2004). Stop the Road: Freeway Revolts in American Cities. Journal of Urban History.
- Lewis, T. (1997). Divided Highways: Building the Interstate Highways, Transforming American Life.
- 内閣府(2001)都市の空洞化とモータリゼーションに関する調査報告。
【反逆のボストン】NO HIGHWAY
エリート長官が魂を売った日。マスキー法と、ボルピの歴史的転向
これまで、アメリカが自ら作り上げた道路信託基金(HTF)という自己増殖システムが、いかにして都市を切り刻み、住民の生活を破壊していったかを解説してきました。1970年前後、アメリカは大きな分岐点に立たされていました。経済成長の象徴だった自動車は、排ガスによる大気汚染の元凶となり、道路建設はコミュニティを破壊する公共の敵へと変わりつつあったのです。
今回は、一人の道路推進のプロフェッショナルが、なぜ自らの信念を捨て、国家の舵を大きく切り直したのか。そのドラマチックな転換点に迫ります。
地球を救え:環境省の誕生とマスキー法
1970年、アメリカの政治風景を一変させる出来事が相次ぎました。一つは、環境保護庁(EPA)の設立。そしてもう一つは、マスキー法(1970年大気浄化法改正)の成立です。当時のアメリカの空は、自動車から吐き出される鉛や一酸化炭素で深刻に汚染されていました。マスキー法は、自動車の排出ガスを10分の1に削減せよという、当時の技術では不可能とも思える過酷なハードルを課しました。
この法律の成立は、アメリカ社会が自動車の利便性よりも、市民の健康と環境を優先するという意思表示をした歴史的瞬間でした。道路をいくら広げても、そこを走る車が毒を撒き散らすのであれば、それはもはや進歩ではない。こうした価値観の転換が、道路予算の独占を揺るがし始めました。
NO HIGHWAY:ボストンを揺るがした住民の反乱
この社会全体の空気の変化を、最も過激な形で突きつけたのがボストンでした。当時、ボストンの中心部を貫通する巨大な高速道路計画州道I-95(インナー・ベルト)が進行していました。歴史ある住宅街が取り壊され、イタリア系やアイリッシュ系のコミュニティが分断される事態に対し、住民たちはNO HIGHWAYを掲げて立ち上がりました。
彼らが求めたのは、単なる建設中止ではありませんでした。
「高速道路を作るお金があるなら、それを私たちの日常を支える地下鉄やバスに使ってくれ!」
この叫びは、当時の道路予算は道路にしか使えないという法律の壁に対する、真っ向からの挑戦でした。
ジョン・ボルピ運輸長官の歴史的転向
この混乱の渦中にいたのが、連邦運輸長官ジョン・ボルピでした。彼はかつてマサチューセッツ州知事として、また建設会社の経営者として、誰よりも熱心に道路を推進してきた人物です。いわば道路帝国の総大将でした。
しかし、1970年2月。彼は地元ボストンで、自らが推進した道路計画によって破壊される街並みと、絶望する住民たちの姿を目の当たりにします。
転向の瞬間
彼は、技術的な効率性(いかに早く車を通すか)が、人間の生活の質(いかに豊かに暮らすか)を完全に踏みにじっている現実に、深い自己矛盾を感じました。彼はニクソン大統領に対し、驚くべき進言をします。
「大統領、我々は道を間違えました。道路を作るために街を殺してはならない。今こそ、道路予算の聖域を解体し、公共交通に開放すべきです。」
一人のエリート官僚が、自らのキャリアを築いてきた道路という神話を捨てた瞬間でした。彼はボストンの高速道路計画をモラトリアム(一時停止)とし、予算を公共交通へ振り替えるための法整備へと動き出しました。
日本における環境と交通の配慮
日本の政策史においても、1970年代は大きな転換期でした。日本でもアメリカのマスキー法に触発され、厳しい排出ガス規制(通称:日本版マスキー法)が導入されました。日本の自動車メーカーがこの壁を乗り越えたことで、世界的な競争力を得たのは有名な話です。
一方で、日本の交通政策における環境への配慮は、主に技術改良(きれいな車を作る)に向けられ、都市構造の転換(車を使わなくて済む街を作る)に向けられるのは、2000年代のコンパクトシティ議論を待つことになります。日本の政策担当者も、当時は高度成長期の物流を支えるための道路整備に全力を挙げており、ボストンのような建設中止と予算転用という過激な選択肢は、当時の日本の状況下では極めて困難な判断であったことも考慮されるべきでしょう。
聖域の扉が開くとき
ボルピの決断は、全米のロード・ギャング(道路ロビー)を激怒させました。
「道路信託基金(HTF)はドライバーが納めた税金だ。それを鉄道に使うのは盗みと同じだ!」
ビッグスリーや石油メジャーによる猛烈な巻き返しが始まります。果たして、ボルピと市民たちは、この巨大な利権の壁を打ち破ることができたのでしょうか。次項では、1973年、ついに聖域が解体された歴史的瞬間と、その後のボストンやポートランドの劇的な復活。そして、50年遅れでその分岐点に立つ日本の未来についてお話しします。
主要参照文献・資料
- Lupo, A., Colcord, F., & Fowler, E. P. (1971). Rites of Way: The Politics of Transportation in Boston and the U.S. City. Little, Brown.
- Mohl, R. A. (2004). Stop the Road: Freeway Revolts in American Cities. Journal of Urban History.
- 環境庁(現環境省)(1972)自動車排出ガス規制の推移と背景。
【聖域解体】ビッグスリーの敗北と、奪還された人間の道
――ボストンの再生、ポートランドから全米に。そして日本の進むべき路
1970年代初頭、ジョン・ボルピ運輸長官が下した高速道路建設のモラトリアム(一時停止)は、当時の常識を覆す一大スキャンダルでした。しかし、制度という名の城壁を崩すには、さらに決定的な政治的・経済的な一撃が必要でした。
ここでは、最強のロビイストたちがついに屈した瞬間と、その結果として生まれた新しい都市の姿について解説します。
1973年、聖域の解体:ビッグスリーの敗北
1973年、アメリカ議会は連邦補助高速道路法の改正という歴史的な決断を下しました。道路信託基金(HTF)の一部開放です。長年、道路の利権を守り続けてきたロード・ギャング(道路ロビー)は、この法案に対し死に物狂いの抵抗を見せました。ガソリン税はドライバーのためのものだという彼らの主張を崩したのは、皮肉にも自動車の普及が生み出した限界でした。
あまりの渋滞に、車を売る側のビッグスリーですら道路を増やすだけでは、もう車は売れない。都市の麻痺を解くには公共交通が必要だという現実を認めざるを得なくなったのです。さらに、同年発生した第一次オイルショックが、大排気量の車でハイウェイを飛ばすというアメリカン・ドリームの脆弱性を決定的に証明しました。これにより、州や自治体にはウィズドロー(計画撤回)・パススルー(予算転用)という強力な武器が与えられました。これは、不要な高速道路計画をキャンセルすれば、その予算をそのまま鉄道やバスなど交通プロジェクトに充てられるという画期的な仕組みでした。
ポートランドの奇跡とボストンの復活
この新制度を最も鮮やかに使いこなしたのが、オレゴン州ポートランドとマサチューセッツ州ボストンでした。
- ポートランドの英断: ニール・ゴールドシュミット市長は、都心を貫く予定だったマウント・フッド高速道路の建設を中止しました。その予算をLRT(次世代型路面電車)の建設に注ぎ込み、車がなくても快適に暮らせる全米屈指のウォーカブルな街を創り上げました。
- ボストンの再生: 第3回で触れたボストンのサウスウェスト・コリドー計画。道路計画の跡地は、現在、美しい公園と地下鉄オレンジラインが走る緑の回廊となっています。もし1973年の予算転用がなければ、そこは今も排ガスに包まれたコンクリートの谷底だったはずです。
これらの成功事例は、全米の都市に対し道路以外の選択肢を選んでも、経済的に繁栄できるという強力なメッセージを発信しました。
日本の現状:50年後の分岐点に立って
翻って、現在の日本を見てみましょう。日本でも2009年に道路特定財源が一般財源化されました。しかし、それはアメリカのように交通政策の質的転換を議論した末の結果というよりは、財政再建の文脈で語られることが多かったように見受けられます。日本の地方都市は今、人口減少と維持費の高騰という二重苦に直面しています。政策担当者の皆様も、限られた予算の中で道路と公共交通をいかに両立させるか、日々苦心されています。日本の施策においても、近年は地域公共交通活性化再生法の改正など、自治体が主体となって交通網を再構築する枠組みがようやく整いつつあります。
アメリカが1970年代に直面した道路建設が街を壊すという悲劇は、現在の日本のコンパクトシティや交通権(移動の権利)の議論の、まさに鏡合わせの先行事例と言えます。
私たちは何を選択するのか
アメリカの歴史が教えてくれるのは、予算の使い道は、その街の未来そのものであるということです。道路を作ることは、特定の地点を繋ぐだけではありません。その周りの土地の使い方、人々の歩く頻度、さらには誰と隣り合って生きるか、という社会のあり方を規定してしまいます。
かつてジョン・ボルピが肉切り包丁を置いたように、私たちもまた、慣れ親しんだ道路中心の思考から少しだけ距離を置いてみる必要があります。50年前にアメリカの市民たちが勝ち取った予算を自分たちの生活のために組み替える勇気は、今の日本にこそ必要なのではないでしょうか。
道路と鉄道。それは二者択一の対立ではありません。私たちが最期まで自分らしく、自由に動ける街を手に入れるための、対等な選択肢なのです。
主要参照文献・資料
- Altshuler, A. A., & Luberoff, D. (2003). Mega-Projects: The Changing Politics of Urban Public Investment.Brookings Institution Press.
- Goldshmidt, N. (1974). Transportation and the City. National League of Cities.
- 国土交通省(2023)地域公共交通の活性化及び再生に関する法律の一部を改正する法律案関連資料。
米国・日本における道路財源制度の変遷年表
- 1954 日 道路整備費特定財源制度の創設 ガソリン税を道路整備の専用財源とする仕組みがスタート。戦後復興の柱となる。
- 1956 米 連邦補助高速道路法 / HTF創設 アイゼンハワー大統領が道路信託基金(HTF)を創設。全米高速道路網の建設が爆発的に加速。
- 1960s 米 ハイウェイ・リボルト(道路反対運動) 米国。都心を貫通する道路建設に対し、ボストンやサンフランシスコなどで住民の猛反対が起きる。
- 1970 米 マスキー法(大気浄化法改正) 米国。排出ガス規制が強化され、自動車社会の負の側面が公的に認識される。
- 1970 米 ボルピ運輸長官のモラトリアム ボストンの高速道路計画を一時停止。道路一辺倒の政策に初めてブレーキがかかる。
- 1973 米 連邦補助高速道路法 改正(基金の開放) 歴史的転換点。 道路信託基金を初めて公共交通(鉄道・バス)へ転用することが認められる。
- 1973 日 第一次オイルショック 日本。省エネが叫ばれるが、道路特定財源の仕組み自体は温存され、建設は継続。
- 1970s後半 米 ウィズドロー(撤回)の活用 ポートランド等が高速道路計画を撤回し、その予算でLRT(次世代路面電車)を整備。
- 1991 米 ISTEA(アイスティー)制定 道路、鉄道、自転車道などを一体で考えるマルチモーダルな交通政策が法的に確立。
- 2003 日 道路関係四公団の民営化決定 造れば造るほど赤字という批判を受け、小泉内閣のもとで道路建設の仕組みにメスが入る。
- 2008 日 道路特定財源の暫定税率騒動 ガソリン税の上乗せ分(暫定税率)を巡り国会が紛糾。制度の是非が国民的議論に。
- 2009 日 道路特定財源の一般財源化 日本の転換点。 55年続いた道路専用の壁が撤廃され、税収を福祉や教育など他目的にも使えるようになる。
- 2010s~ 米 HTFの財政危機 米国。燃費向上や電気自動車の普及でガソリン税収が減り、基金の維持が困難に(走行距離課税の検討へ)。
- 2023 日 改正地域公共交通活性化再生法 一般財源化された予算等を背景に、自治体が主体となって公共交通を再構築する枠組みが強化。
年表から見える日米の決定的差異
- 転換までの時間差:
アメリカは1973年の時点で、道路予算を公共交通へ転用する権利を自治体に与えました。対する日本が道路専用という縛りを解いたのは2009年であり、アメリカに比べて約35年の開きがあります。 - 転換のきっかけ:
米国: 都市の分断、環境破壊、住民運動といった都市の生存権を巡る戦いが転換を促しました。
日本: 主に財政再建や無駄な公共事業の削減といった政治・行政改革の文脈で一般財源化が進みました。 - その後の展開:
アメリカは開放された予算でポートランドのような公共交通都市のモデルを生み出しましたが、日本は一般財源化の後、その予算が必ずしも公共交通の維持(交通権の確保)に直結せず、地方路線の廃止が続くなど、新たな課題に直面しています。
日米・道路財源制度と交通政策の転換比較表
| 比較項目 | アメリカ (USA) | 日本 (Japan) |
| 主要な財源制度 | 道路信託基金 (HTF) (1956年〜) | 道路特定財源制度 (1954年〜) |
| 財源の性格 | 目的税(専用財源)。ガソリン税等は道路建設以外には一切使えない聖域。 | 目的税(専用財源)。戦後復興と物流網整備のため、道路整備に集中投資。 |
| 制度の転換点 | 1973年 (連邦補助高速道路法改正) | 2009年 (一般財源化) |
| 転換の主な背景 | 都市の分断と環境破壊。道路が街を壊す肉切り包丁化したことへの住民の反乱。 | 財政再建と政治改革。公共事業の無駄削減という行政効率化の側面が強かった。 |
| 推進勢力の呼び名 | ロード・ギャング (自動車・石油・建設ロビー) | 道路族 (特定財源を背景にした政治家・官僚・建設業) |
| 予算転用の仕組み | ウィズドロー(撤回)・パススルー。不要な道路を中止すれば、予算を鉄道に転用可能。 | 一般財源化。道路以外のあらゆる用途(福祉、教育等)に使えるが、交通への優先権はない。 |
| 代表的な成功事例 | ポートランド、ボストン。道路予算をLRTや地下鉄、公園に化けさせた。 | (模索中)。宇都宮LRTなどの事例はあるが、全国的な仕組みとしてはまだ発展途上。 |
| 公共交通への視点 | 道路の代替・補完。渋滞解消や環境保護のために、道路予算を分け与える対象。 | 独立採算の民間事業。道路は公費だが、鉄道やバスは自前で稼ぐのが基本という認識。 |
| 政策の弱点 | 転用は進んだが、依然としてガソリン税頼みのため、EV普及による財源不足に直面。 | 一般財源化後、予算が他施策に分散し、地方公共交通の維持に十分な資金が回りにくい。 |
経済学的な視点からは、道路の限界を認めたタイミングと、余った予算をどこに振り向けたかの差が、現在の両国の都市景観の差を生んでいることが分かります。最も大きな違いは、予算の紐付け(ひもづけ)のあり方です。
- アメリカの戦略性:
アメリカは道路を作るための金を、あえて公共交通を作るための金として直接スライドさせる仕組み(ウィズドロー)を作りました。これにより、自治体は道路を作るか、電車を通すかを同じ予算枠の中で天秤にかけることができ、結果としてポートランドのような公共交通都市が誕生しました。 - 日本の課題:
日本は道路専用という縛りを解いたものの、その予算は何にでも使えるお金(一般財源)として国や自治体の財布に混ざってしまいました。その結果、公共交通の維持が他の行政需要(介護や教育など)との厳しい予算争いにさらされ、交通インフラへの戦略的な再投資が起きにくい構造になっています。
アメリカが50年も前に直面した道路の限界を、日本がいかにして交通権の保障という新しい投資に結びつけていくか。この日米の比較は、これからの日本の交通政策を考える上での重要な鏡となります。
お読みいただきありがとうございました。このシリーズが、皆様の住む街の道を考える一助になれば幸いです。
次は、あなたの街の未来の地図について、一緒に議論してみませんか?
注意
以上の文書はAI Geminiが生成したものを加筆修正しており、誤りが含まれる場合があります。
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