英国の交通政策や都市計画の根幹を支えているのは、厚生経済学(Welfare Economics)という学問領域です。これは、単にお金がいくら動いたかではなく、社会全体の幸福(満足度)が最大化されているかを数学的・論理的に評価する学問です。
英国の運輸省(DfT)が発行している投資評価ガイドラインTAG (Transport Analysis Guidance)は、この厚生経済学の塊と言っても過言ではありません。
スライド資料(14ページ)
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音声解説(18分)
AI Notebook LM で生成したラジオ番組風解説
都市交通が測る街の幸福度とBCR_厚生経済学で計算する投資価値
1. 厚生経済学の核心:社会余剰の最大化
厚生経済学の基本的な考え方は、社会余剰(Social Surplus)を最大にすることです。社会余剰は、以下の2つの合計で構成されます。
- 消費者余剰: 住民がこれくらいなら払ってもいいと思う金額と、実際に支払う費用の差額(=得した気分)。
- 生産者余剰: 交通事業者の利益。
交通政策においては、新しい鉄道や道路が整備されることで移動コスト(時間・運賃)が下がります。この下がったコスト分が、住民の消費者余剰の増大として計算されます。
2. 英国が重視する広義の経済的便益(Wider Economic Impacts)
かつての交通政策は移動時間の短縮ばかりを計算していましたが、現在の英国では、厚生経済学をさらに発展させた広義の経済的便益(WEI)を重視しています。
集積の利益(Agglomeration Economies)
- 理論: 輸送コストが下がると、企業や人が特定の場所に集まりやすくなります。密度が高まることで、情報の交換が早まり、生産性が向上します。
- 実務: Ahlfeldt et al. (2015) が示したように、密度の向上が生むGDPの押し上げ効果を、交通投資の便益として算入します。
- 理論: Heblich et al. (2020) の職住分離の理論です。輸送コスト低減により、労働者は自分を最も高く評価してくれる会社へ、より広い範囲からアクセスできるようになります。
- 実務: これにより労働生産性が向上し、所得税収が増える分を、社会全体の便益として評価します。
人的資本の外部性
- 理論: Lucas (1988) が提唱した、人々が交流することで知恵が混ざり合う効果です。
- 実務: 都市をコンパクト化し、対面交流(Face-to-Face)を増やすことが、長期的なイノベーション(内生的成長)を創出すると評価します。
3. 具体的な使い道:BCR(費用便益比)の算出
厚生経済学は、行政がどのプロジェクトに予算をつけるかを判断する際の物差しになります。
- コストの算出: 建設費、維持管理費(インフラLCC)。
- 便益(ベネフィット)の算出:
時間の短縮(タイムセービング)、事故の減少、広義の経済的便益(集積・マッチング・成長)、環境負荷の低減。 - BCR = 便益 ÷ 費用:
この値が1を超えていれば社会的にやる価値があり、値が高いものから優先的に予算がつきます。
4. なぜ英国は集約と公共交通に投資するのか?
厚生経済学の視点で見ると、道路(自動車)投資は分散を招き、長期的にはインフラ維持費(LCC)を増大させ、集積の利益を薄めてしまうことが計算で示されます。
逆に、公共交通と都市のコンパクト化は、
- 特定の拠点に密度を生む。
- その密度が集積の利益(生産性向上)を生む。
- さらに知の交流(イノベーション)を誘発する。
というプラスの連鎖を生みます。英国の政策担当者は、この厚生経済学的な数理モデルを使って、集約型の都市構造の方が、社会全体の幸福度(厚生)が長期的に高くなることを証明し、予算を正当化しているのです。
まとめ:厚生経済学の使い道
- 行政にとって: 感情論ではなく、データと理論に基づいた予算の優先順位をつける道具。
- 住民にとって: 自分の住む街への投資が、どれだけ生活の質(QOL)を上げ、地域を豊かにするかを測る尺度。
- 産業にとって: 輸送インフラが、自社の生産性や優秀な人材確保にどう寄与するかを予見する指標。
具体的なシミュレーションの例
英国の厚生経済学的な手法(TAG)を、日本の地方自治体における駅前再開発と立地適正化計画に適用した場合の具体的な実例(シミュレーション)を構成します。
ここでは、単なるビルを建てるという視点から、輸送コストを下げて社会全体の厚生(幸福)を最大化するという視点への転換を可視化します。
実例:地方中核都市X市の駅前集約プロジェクト
1. 施策の概要
現状: 郊外のバイパス沿いに商業施設が分散し、駅前が空洞化。公共交通の利用者が減少し、市バスの赤字が拡大。
プロジェクト: * 駅前に公立病院、図書館、商業施設を集約。
郊外の居住誘導区域と駅前を繋ぐLRT(次世代型路面電車)の整備。
目的: 移動の一般化費用を下げ、厚生経済学上の社会余剰を創出する。
2. 厚生経済学に基づいた便益(ベネフィット)の計算項目
英国のTAGの手法に基づき、以下の3つのレイヤーで便益を算出します。
① 直接的便益(利用者と事業者のメリット)
- 移動時間の節約(Time Savings): LRT導入により、渋滞に巻き込まれず定時性が確保されることによる価値を貨幣換算。
- 消費者余剰の拡大: 病院や図書館が駅前に集まることで、一度の外出で複数の用事が済む(買い回り便益)ことによる満足度の向上。
- 運行コストの削減: 施設が集約されることで、バスの巡回ルートを効率化し、行政の運営コスト(生産者余剰の改善)を削減。
② 広義の経済的便益(Wider Economic Impacts / WEI)
ここが厚生経済学の真骨頂であり、Ahlfeldt et al. (2015) や Venables (2007) の理論が使われる部分です。
- 集積の利益(Agglomeration): 駅前にオフィスや店舗が集まることで密度が向上。企業間の情報交換が活発になり、地域の時間あたり労働生産性が向上する効果を計算。
- 労働市場の有効活用(Labor Market Impacts): アクセスが良くなることで、これまで移動の制約で働けなかった層(高齢者や子育て世代)の就業を促し、地域の所得水準(税収)を底上げ。
- 不完全競争の解消: 輸送コストが下がることで、より広域の店舗との価格競争が生まれ、消費者がより安く質の高いサービスを受けられる効果。
③ 環境・社会・レジリエンス便益
- 外部費用の削減: 自家用車からLRTへの転換により、CO2排出量、交通事故コスト、道路補修費を削減。
- オプション価値(Option Value): 現在は自家用車を使っている人も、将来運転できなくなった時に、駅前に機能があるという安心感(保険的価値)を評価。
3. 分析結果の解釈:BCR(費用便益比)
シミュレーションの結果、以下のような数値が算出されたと仮定します。
評価項目 金額(30年間の現在価値)
- A. 建設・運営コスト 100億円
- B. 直接的便益(時間短縮等) 80億円
- C. 広義の経済的便益(集積・生産性向上) 50億円
- D. 環境・社会便益(CO2・安心感) 30億円
- 総便益 (B+C+D) 160億円
- BCR (総便益 / コスト) 1.6
判定: 直接的便益(80億)だけではコストを下回りますが、集積の利益などの広義の経済的便益を含めることで、BCRが1.0を超え、社会全体として投資する価値があるという科学的な根拠が得られます。
4. この手法をどう使うか(政策的な武器)
この厚生経済学的な分析結果は、以下の場面で強力な武器になります。
- 財務当局への説明: 賑わいが生まれるという主観的な言葉ではなく、これだけの経済的余剰と生産性向上が生まれると数値で予算を正当化。
- 住民合意の形成: 郊外の住民に対しても、駅前に集約することで、市の財政負担(インフラLCC)が減り、将来の増税を防げるという客観的なメリットを提示。
- 民間投資の呼び込み: 交通投資による集積の経済の発生を予測することで、民間デベロッパーの出店意欲を高める。
厚生経済学の年表
| 年代 | 主要人物・出来事 | 理論・概念の名称 | 社会・政策への影響 |
| 1920年 | A.C. ピグー | 『厚生経済学』 | 外部性(ピグー税)の誕生。市場の失敗を是正する政府の役割を定義。 |
| 1930年代 | L. ロビンズ | 効用の比較不可能性 | 他人と自分の幸福度は直接比較できないという批判。理論の厳密化を促す。 |
| 1939年 | カルドア、ヒックス | 補償原理 | 敗者が勝者から補償を受けることで全体が改善すれば厚生向上とみなす基準(費用便益分析の基礎)。 |
| 1950年 | P. サミュエルソン | 社会的厚生関数 | 社会全体の幸福をひとつの数式で表そうとする試み。 |
| 1951年 | K. アロー | 一般可能性定理 | 民主的な手続きで全員が納得する順位をつけることの数学的困難さを証明。 |
| 1970年 | A. セン | 潜在能力(ケイパビリティ) | GDPだけでなく何ができるか(自由)を重視。後の人間開発指数(HDI)へ。 |
| 1980年代 | R. ルーカス | 内生的成長理論 | 人的資本の外部性。知の交流が経済を成長させると定義。 |
| 2000年代〜 | 英国運輸省 (DfT) | TAG (Transport Analysis Guidance) | 厚生経済学の社会実装。集積の経済やマッチング効果を貨幣換算し政策決定に反映。 |
| 2010年代 | Glaeser, Ahlfeldt等 | 新空間経済学との融合 | 密度が生産性やアメニティに与える影響を実証し、コンパクトシティの正当性を裏付け。 |
厚生経済学を交通・都市政策の意思決定プロセス(費用便益分析:CBA)にどのように組み込んでいるかは、国ごとにその厳密さと範囲が大きく異なります。英国を筆頭に、欧米諸国や日本における導入状況を体系的に整理します。
厚生経済学の社会実装:国別導入状況
各国の導入レベルは、伝統的な移動時間の短縮だけでなく、本シリーズで触れてきた広義の経済的便益(WEI:集積の経済や労働市場への影響)をどこまで貨幣換算して予算配分に反映させているかで測ることができます。
1. 英国:世界で最も厳密な実装(厚生経済学の最前線)
英国は、厚生経済学を政策決定の言語として完全に定着させています。
- 特徴: 財務省のGreen Bookと運輸省のTAGにより、非常に高い透明性と論理性が確保されています。
- WEIの算入: Ahlfeldt et al. (2015) や Venables (2007) の理論に基づき、集積による生産性向上(Agglomeration benefits)や、不完全競争の改善効果を標準的に計算に含めます。
- 活用状況: 2021年のLevelling Up(地域格差是正)政策では、経済効率だけでなく、格差是正という社会的厚生の再分配についても、TAGの枠組みで評価が行われました。
2. 欧州(フランス・ドイツ):戦略的活用と環境重視
欧州諸国も厚生経済学を重んじますが、英国よりも環境的外部性や社会的統合に重きを置く傾向があります。
- フランス: 高速鉄道(TGV)の整備において、地域間の格差是正や二酸化炭素排出削減という外部便益を高く評価します。
- ドイツ: 連邦交通路計画(BVWP)に基づき、マクロ経済的な波及効果を計算します。特に、環境コストや騒音といった負の外部性の内部化(貨幣換算)において非常に厳しい基準を持っています。
- 北欧諸国: 幸福度に近い指標として、個人の健康増進(サイクリングロード整備による医療費削減効果など)を厚生経済学的に評価する手法が進んでいます。
3. 米国:プロジェクトごとの多様性と実利主義
米国では連邦レベルのガイドラインは存在するものの、州ごとに評価手法が異なります。
- 特徴: 伝統的に自動車利用者の便益(時間短縮)が重視されてきましたが、近年ではバイデン政権下のBUILDやINFRAといった補助金制度において、公平性(Equity)や環境負荷低減が評価項目として強化されています。
- WEIの算入: 大都市圏(ニューヨークやカリフォルニア)の鉄道プロジェクトでは、集積の経済が計算に含まれることがありますが、全国的な標準とまでは言えません。
4. 日本:堅実な導入と集約へのシフト
日本は、1990年代以降、公共事業の透明性を高めるために厚生経済学(費用便益分析)を体系的に導入してきました。
- 特徴: 国土交通省の費用便益分析マニュアルにより、鉄道や道路の評価手法が標準化されています。
- 現在の動向: 以前は移動時間の短縮が主眼でしたが、現在は立地適正化計画との連動により、都市をコンパクト化することによる行政コスト削減(インフラLCCの抑制)や、生活利便性の維持(オプション価値)を評価に組み込む動きが加速しています。
- 弱点と配慮: 英国に比べると知の交流による生産性向上の貨幣換算はまだ限定的ですが、日本の政策担当者は、定量化しにくい地域コミュニティの維持などの社会的厚生についても、定性的な評価を通じて慎重に配慮しています。
各国の厚生経済学適用範囲の比較
| 国名 | 主なガイドライン | 集積の経済 (WEI) | 環境・社会評価 | 特徴 |
| 英国 | TAG / Green Book | 非常に高い | 統合的・論理的 | 理論を数学的に完璧に実装 |
| フランス | LOTI法 | 中程度 | 高い | 領土の均衡発展を重視 |
| ドイツ | BVWP | 中程度 | 非常に高い | 環境コストの評価が厳格 |
| 米国 | BCA Guidance | 低〜中 | 多様 | 州ごとの独立性が高い |
| 日本 | 費用便益分析マニュアル | 低〜中 | 拡大中 | 公平性と財政維持を重視 |
結論:
各国の状況を比較すると、日本の課題は移動の効率化という古い厚生経済学から、都市の集約による知の創出(生産性向上)という現代的な厚生経済学(英国型)へのアップグレードにあります。
- 行政: 集約がもたらす知のスピルオーバーを数値化できれば、再開発予算の正当性が高まります。
- 住民・産業: 自分が払う税金や投資が、単なるアスファルトではなく、地域の稼ぐ力(生産性)にどう化けるのかを、共通の尺度(厚生経済学)で語ることが可能になります。
出典
1. 英国:厚生経済学の社会実装における世界標準
英国は、経済学の理論を実務マニュアルに変換することにおいて最も進んでいます。
- HM Treasury (2022). “The Green Book: Central Government Guidance on Appraisal and Evaluation.”
内容: 英国財務省が発行する、全公的プロジェクト評価の憲法。厚生経済学の社会的便益の最大化を国家の義務として明文化しています。 - Department for Transport (2023). “Transport Analysis Guidance (TAG).”
内容: 輸送コスト低下が集積の経済(WEI)を生むプロセスを貨幣換算するための具体的な数式を提供。本シリーズで紹介した Venables (2007) の理論が直接組み込まれています。
2. 欧州(EU・ドイツ・フランス):環境と統合の視点
欧州連合(EU)レベルでは、国境を越えた投資のために評価基準を統一しています。
- European Commission (2014). “Guide to Cost-Benefit Analysis of Investment Projects.”
内容: 欧州投資銀行などが融資判断に用いるガイドライン。厚生経済学に基づき、CO2削減や事故減少をシャドウ・プライス(影の価格)として計算する方法を定義しています。 - BMDV (2016). “Federal Transport Infrastructure Plan (BVWP) 2030.”
内容: ドイツ連邦交通・デジタルインフラ省の計画。厚生経済学の外部性の内部化を徹底し、環境コストを極めて高く見積もるのが特徴です。
3. 日本:透明性と実務の積み上げ
日本は、1990年代後半の公共事業批判を経て、評価手法の透明化を進めてきました。
- 国土交通省 (2022). 『公共事業評価の費用便益分析マニュアル(各事業分科会)』
内容: 道路、鉄道、港湾、都市開発など各分野の計算ルール。厚生経済学の消費者余剰の概念が基盤です。 - 国土交通省 (2021). 『都市構造可視化計画 / 立地適正化計画作成指針』
内容: 集約による行政コストの低減効果をどう見積もるかを示しており、本シリーズで触れたインフラLCCの視点が色濃く反映されています。
4. 理論的裏付けとなる学術的出典
政策マニュアルが引用している、厚生経済学と都市経済学の架け橋となる論文です。
- A.C. Pigou (1920). “The Economics of Welfare.”
意義: 厚生経済学の起点。市場に任せると外部性(渋滞や公害)が解決されないため、政府の介入が必要であると論じました。 - Venables, A. J. (2007). “Evaluating Urban Transport Improvements: Cost-Benefit Analysis in the Presence of Agglomeration Economies.”
意義: 英国TAGの理論的支柱。輸送コスト低減が集積(Agglomeration)を通じていかに生産性を高めるかを数理モデル化しました。 - Glaeser, E. L., & Gottlieb, J. D. (2009). “The Wealth of Cities: Agglomeration Economies and Spatial Equilibrium in the United States.”
意義: 密度(集約)が人的資本の蓄積を促し、それが厚生の向上に直結することを実証した、現代の都市政策のバイブル的論文です。
注意
以上の文書はAI Geminiが生成したものを加筆修正しており、誤りが含まれる場合があります。








